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霧とお経

(出典:書き下ろし)

霧 山間の村や盆地では、よく霧が出ます。
 自坊(じぼう=自分が住職しているお寺)は、標高約130メートル、京都府与謝野町にあり、鬼退治伝説の大江山が正面に見えます。
 ある朝、自坊で掃除を始めると、平地から霧が上ってきました。
 霧は、遠目には一様に見えます。が、上ってくる霧を立ち止まって見ると、そうではありません。流れる霧には、濃淡があります。自坊は東向き斜面にあるので、霧が朝日に光るのです。
 さて、仏教には、「お経」があります。釈尊の教えを文字にしたものです。釈尊の教えを「法」といいます。法とは「真理」を意味します。釈尊個人の考えではありません。釈尊は、森羅万象に流れる「ほんとうのこと」に気づいたのです。それを「悟り」といいます。
 釈尊は、言葉で「法」を語られました。ところが、言葉は、伝わった瞬間に消えてしまいます。人間の記憶は、いい加減なものです。皆さんも「言った、言わない」で喧嘩になった経験はありませんか?
 そこで、仏陀の教えを文字にしました。これがお経です。
「経」とは、漢字で「縦糸」の意味です。時代が変わっても切れない、真理の言葉だからです。流れ来たる霧に、縦糸―お経を感じます。
 ところで、霧の流れの中にいると、霧は、一様ではないことがわかります。ムラがあるのです。時々刻々と変化しています。まるで、移り変わりの激しい現代社会のようです。この変化を、お経=縦糸に対し、毎日=横糸と見てみましょう。横糸は、漢字で、「緯」という字を使います。物事のいきさつを、「経緯」と書いたり、地図上の縦線を経線、横線を緯線と言ったりします。織物だって、縦糸と横糸が交わって布になるのでしょう。
 毎日色々なことがあるけれど、大事にすべきことは変わらない。横糸だけ見て縦糸を切ってはいけない。目先のことに目を奪われて、信仰を忘れてはいけない。と言えないでしょうか?
 さらに、霧の中にいると、皮膚や髪が濡れてくることに気づきます。昔、まだ髪を伸ばしていた頃、自転車に乗っていると、知らない間に濡れるのです、髪が。霧の正体は、小さな水粒なのですね。
 一つ一つの水粒は、私たち一人一人のようです。それが集まって、霧になる。人間が生まれて、社会を作るのに似ています。やがて、日が高く昇ると、霧は消えてゆきます。元気だった人も、やがては死に往きます。それは苦でしかないのでしょうか? お経には「そうとは限らない」という縦糸が張ってあります。
 「お経の意味がわからない。だからつまらない、役に立たない」と信者さんから言われます。確かに、わかりやすいお経は、必要です。でも、お経は縦糸でしたね。「服の縦糸が何本あるか数えるまで服を着ない」という人はいないでしょう。
 お経は真理の言葉です。一心にお唱えすること自体、人生の縦糸をしっかりさせることなのです。

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