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秋はもみじ葉

(出典:『琉璃燈』(平成17年3月発行))

 現在、生きている私たちを木の枝葉に例えますと、目には見えませんが、地中深く日々生き続け、枝葉を力強く支えている根は仏様といえましょう。そして、その根の養分を絶やさないことを供養と言っても過言ではありません。いや、絶やさないからこそ、枝葉が伸び、茂るのであります。ですから、根と枝葉は切っても切れない関係にあります。
この木々を人生に例え、四季が移り変わってゆく様子を考えてみたいと思います。
葉を落とした木の枝は、春になりますと芽吹きはじめます。人生で言うと誕生です。そして、目にさわやかな新緑の頃となります。
「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」(山口素堂)ではありませんが、すべてが新鮮です。人生で言う幼年期から少年期であります。
夏、八月を葉月と申し、木の葉は青々と茂り太陽の光を思う存分吸収し、絶頂期を迎えます。人生で言う青年期と申せましょう。
しかし、「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」『古今和歌集』と、藤原敏行が詠っているように、周囲のすべてが静かに落ち着きはらって、風の音にも寂しさを感じる秋になりますと、木々の葉も色づく頃となります。この色づいた錦織りを人々が「美しい」と賞賛いたします。人生で言うと、壮年期から老年期と言えましょう。もみじと同じように、人々から「深み・円熟・枯淡・いぶし銀」と言われる時期を迎えるのであります。壮年期から老年期は、青年期とは違った美しさが醸し出されてくるのであります。
青年期が朝日であれば、壮年期から老年期は夕日です。温かみを含んだ優しさ・柔らかさ・厚みを感じさせられるものであります。花の蕾が少年期であれば、みごとに花を咲かせて実をつけるのが、壮年期から老年期でありましょう。ところが自然の摂理と言うものでしょうか。秋は冬をどうしても迎えなければなりません。もみじも枝から離れて地に帰って往く時がやってまいります。太陽が西の山向こうに沈む時がやってまいります。満開の花を散らす時がやってまいります。
そこで、冬を迎えたからと言って、これで終わりでしょうか。冬が来ればその後には春がやってくるのは当たり前のことです。もみじが落葉すると、その後には新芽が顔を覗かせています。夕日が沈みますと、しばらくすると朝日が昇ります。花びらが散ると、その後には種を生み、その種が地に帰り新しい芽を出します。
終わりでなく、始まり。つまり、始まりの連続であります。そうしますと、命は終わりなきもの。終わったかのように思いましても、形を変えて、永遠にあり続けるものと言えましょう。これを宗門では、「オミトフ(阿弥陀仏の唐韻読み)」と唱え、尊んでおります。

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