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岸壁の母

(出典:書き下ろし)

 母は来ました今日も来た、この岸壁に今日も来た、とどかぬ願いと知りながら、もしやもしやにもしやもしやに、ひかされて、また引揚船が帰ってきたのに……。『岸壁の母』

 京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館によると、終戦時大陸に残された日本人の内、約47万2千人がシベリアの収容所で拘留生活を強いられていました。政府は昭和20年10月7日から舞鶴港は政府指定引揚港のひとつとして、先の大戦において海外に取り残された660万人以上といわれる日本人の生命線としてその使命を果たしてきたそうです。以降13年間、66万4531人の引揚者と1万6269人の遺骨を受け入れました、引揚桟橋で未だ帰らぬ肉親を待つ家族の心痛とは、想像もできない苦しみであったのではないでしょうか。
 この引揚を待つ人ごみの中に一人のご婦人がおられました、この方の名前は端野いせさん、後に岸壁の母のモデルとされた方です。御自分の御子息の名前が引揚名簿に載っていなくても「もしや」と毎回引揚船が来航するたび、引揚桟橋にその姿を見せるのでした。
 『岸壁の母』を作詞した作詞家、藤田まさとさんは、端野いせさんのインタビューを聞いているうちに、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたと伝えられています。
 戦後の敗戦国日本という世間の事情に翻弄され、人々は大変な生活苦を持つことになった時代にあって、生きている事すら判らない子供を待つという母親の愛の執念、「私が待たなければ」という強い一念そのものになって、なりきって生きる端野いせさんであったからこそ、日本中の人々の心に響くことのできる音楽ができたのです。
 現代人は、「自分の求める処が満たされてこそ」という個々の主張ばかりを唱え、それが尊重されてこその自己の存在理由があり、価値もあるというのを当たり前のように考えがちでありますが、はたして本当にそうなのでしょうか。
 端野いせさんは残念ながら、御子息との再会はできませんでしたが「だめですよ、無理ですよ」という世間の声に付和雷同せず、子供の存在を信じ、自分の都合や自我というものから離れる瞬間がはっきりとあったからこそ、御自身のその根本的な存在理由を感じ、今しなければならない目の前の事に迷いもなく務められ、御自分の人生を見失う事なく生ききられたのではないでしょうか。
 考えて見てください。なんびとも子供がいないのに母になることはできません。また、生まれる前から自分のオムツの用意をしてお出ましになられた方は御座いません。頂いて頂いて存在する私だからこそ、我を捨てて他のこころと命の糧になろうとすること、施しの毎日を送る事が、本当の自分の人生をいきいきと生きていると言えるものと私は信じます。

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