枕経・お葬式・中陰ってなに?
(出典:書き下ろし)
◆枕経ってなに
枕経とは、死期が目前となって床に臥している人の所に出向き、死の恐怖とあの世に行かねばならない不安を少しでも和らげ安心を得られるように、それぞれ縁のあった宗教者を招いて教えを聞くことです。生きた人の心を和らげることこそが本来の姿といえます。
昔は、臥せっている部屋に阿弥陀仏の掛軸を掛け、その絵仏の手に付いている五色の糸を死期が近づいた人の手に持たせて極楽往生を願う風習もありました。
現在では自宅で息を引き取ることは稀となり、殆どが病院で極力延命処置を施した上で亡くなります。そうなってから連絡を受け、遺体の横で読経をして、葬式の打ち合わせをするようになってしまっています。
ホスピス病棟に入った方の中に、宗教者を呼んで話を聞きたいという人が多いということです。現代の医療技術を以てしても限界が訪れた時に、心の窓が開かれるのかもしれません。宗教というものに関心がなくても。
◆お葬式ってなに
葬式のことを臨済宗では「津送」といいます。「津」とは、舟渡し場の意味で、いわゆる「港」を指します。亡くなられた方が、次の世まで行くための舟という乗り物に乗船する港まで見送ることをいいます。葬式の時に、チン・ドン・ジャランといった鳴らし物がありますが、港でも出船の時に銅鑼を打ち鳴らします。特に遠い国に向けて出航する船には親しい関係者が見送りに来て、行く人と残る人の間で紙テープを持ち合い、徐々に船影が遠ざかって行くのを見送る光景をテレビなどで見たこともあるのではないでしょうか。
葬式など必要ないという人もありますが、それは個々の考え方です。こうでなければならないということはありません。しかし、誰しも必ずこの船に乗らなければならない時が来ます。やがて自分が乗らなければならない時が来た時、見送りをする人がない舟渡し場で一人寂しく乗船して行かねばならないことこそ、悲しく哀れに思えてなりません。
◆中陰ってなに
亡くなられてから四十九日迄を「中陰」あるいは「中有」といいます。
私たちが、今の命の姿を「本有」といい、死が訪れたときの姿を「死有」、次の世に行く迄を「中有」、次の世に生まれ変わる瞬間を「生有」といい、そして再び「本有」の姿となります。本有→死有→中有→生有→本有と命の姿が循環再生して行く過程で、中有の姿を中陰といっております。
以前は、消費は美徳といっていたのが、近年、環境問題、資源の枯渇など危惧され、リサイクル運動が盛んになってきました。物の命を大切に循環再生して行くことが地球を愛することに繋がる。善い行ないは善い世界へ、悪い行ないは悪い世界へ、我々の命の使いようも同じこと。しかし、中有の状態になると自分の力ではどうすることもできない。そこで、残された縁者が身代わりとなって善い行ないを積み、中有の命へ功徳を届けることが出来るとされております。