地獄極楽はこの世にあり
(出典:書き下ろし)
毎年8月16日になると思い出すことがあります。私の寺の近くに浄土宗のお寺があり、地獄の釜の蓋が開く日に「地獄極楽図」が御開帳されます。
幼少の頃、母に連れられ、初めて見た衝撃は今でも深く残っています。おどろおどろしい地獄の様子は、灼熱によって苦を受ける八熱地獄や、餓鬼・畜生の世界がリアルに描かれていました。罪人が乾きのために水を飲もうとすると、水が火に変わり、食物を何一つ食べることができない餓鬼の世界や、鬼が舌をひっぱり抜くむごい描写などを見て、子供ながらに、悪いことや嘘をついたら地獄に落ちるのだと思い、閻魔さんに手をあわせ、「悪いことはしません。地獄に落ちませんように」と祈ったのを覚えています。
炎天下のその帰りしなに、肩をすぼめ青ざめながら境内の参道を歩いて、足元にふと目をやると、そこには地獄図とは対照的に、極楽図にあった蓮が泥の中から見事に一輪の華を開かせ、ほのかに何とも言えない清らかな芳香を漂わせていたのを忘れることはありません。
さて、連日目を覆いたくなるような悲惨な事件が跡を絶ちません。自分の利益のためなら、何をしてもかまわないということが横行し、他人のことを心から思いやるということが希薄になってきているのではないかと感じるのは私だけでしょうか。
地獄と極楽についてあるお話があります。同じ条件で、地獄と極楽にいる人が大きなテーブルを囲んでそれぞれ食事をしています。机には御馳走が皿に並べられ、2メートルもあるスプーンが両手にひもで括り付けられています。地獄の人達はいつまでたってもわめき苦しみ、腹が減るばかりで食べることができません。かたや、極楽の人達は、楽しそうにおいしく食べています。もうみなさんもおわかりのことと思います。
地獄の人の心は我利我利なので、俺が俺がで長いスプーンの柄を口にあてがうばかりで、ちっとも口に御馳走が入りません。それに対し、極楽の人の心は、利他利他ですから、まずあなたに御馳走をさしあげますよということで、2メートル先の相手にスプーンを差し伸べ、口に運んでいます。いかがでしょう。条件は同じなのに、こんなにも違いがあります。
私たちの心も日々の生活の中で、地獄と極楽の繰り返しかもしれません。できるなら、極楽のようにみんなで仲良く明るく幸せに過ごせる社会を築きたいものです。
そのためには、悪いことは誓ってせず、善いことを進んで行い、よい習慣として、心を浄くして、世のため人のために尽くしていくことが、私たちの使命ではないでしょうか。