人生はしゃぼん玉
(出典:書き下ろし)
妙心寺の新亡供養において、時の管長様が興味深いお話をして下さいました。
しゃぼん玉は膨らんだと同時にパッと消えてしまうものもあれば、長いものは、十数秒空気中に漂い、やはり消えてしまいます。中の空気はどこへ行ったのでしょう。しゃぼん玉の形はなくなりましたが、中の空気は外の空気に融合し、存在しています。人の命にも同じことが言えると思います。
このお話には説得力があり、私も胸のつかえが下りたような気が致しました。以来私は法事の時には、いつも「しゃぼん玉」の話を致します。
人生はしゃぼん玉のようにはかないものですが、ご縁のある皆さんは、一所懸命に生き抜いたその方の善い所を引き継いでゆきましょう。そして、姿や形はなくなりましたが、私達をやさしく包んで下さっているご先祖様に、後の世でも安らかにお過ごし頂くようお供え物をして、一心に手を合わせて下さい。それが追善供養なのです。
私達は、綿々と続くご先祖様の命を頂いてこの世に生を受けました。それは単なる偶然ではない筈です。父と母が結婚し、そして不思議なご縁を頂いて私が誕生したのです。友と出会った事も縁、ある時、自動車事故に遭ったのも縁、幸い怪我はしなかったけれど、不幸中の幸いという事はよくある話です。私達は諸々の縁によって生かされているわけですから、縁は絶対なのであります。
縁についてひろさちや先生はこうも言われます。AさんがBさんにしてあげた事がAさんに返ってくるのではなく、BさんからCさんに、CさんからDさんEさんを通して、Aさんに返ってくるもので、これを縁の構図というそうです。
ですから、できるだけよい縁に出会えるよう祈らずにはおれませんし、悪い事はせず、善い行ないをして、精進しなければなりません。
人と人、人と物、すべてが影響しあい、縁によって繋がり、この世に存在しております。大いなるものに抱かれある事を知る為には、心静かに手を合わせ、天空と私が一つになる努力をする事です。その方法が、お経を読む事であり、坐禅をする事です。でも突然足を組んで坐禅をしようものなら、中高年の方は神経痛がおこってしまいますので、あまり無理をしないで下さい。正座でも、姿勢を正して椅子に腰かけてでもよいのです。お体の悪い方には寝禅という方法もあります。要は、素直な信心を持ち、日々の努力を怠らないという事ではないでしょうか。
膨らんだしゃぼん玉は、七色に光り輝き、ぷるぷると揺れ動き、それはあたかも、人生にどんな出来事があろうかと、期待に胸膨らませる赤子のようでもあります。
乳飲み子の しだいしだいに知恵つきて 仏と遠く なるぞ悲しき
という歌があります。これは仕方のない事ではありますが、私達はできるだけ和願愛語を心がけて、人に対しては礼をつくし、この世を丁寧に謙虚に生きてゆきたいものです。