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「サツキ」に思う

(出典:書き下ろし)

 もう皆様の周りでは、サツキの花は咲いていますでしょうか。サツキの名は五月皐月(さつき)の頃に一斉に咲き揃うところから付けられています。そのサツキの花言葉をご存じでしょうか。「節制」だそうです。節制とは「欲に負けず、度を越さないように程よくすること」です。この花言葉になったのは、サツキが山奥の岩肌に力強く根付き、刈り込みに強く、厳しい環境にも良く耐え、花を咲かせることに由来しています。
 「度を越さないように程よくする」とは仏教の「中道(ちゅうどう)」に通ずるところがあります。中道とは、「悟りを開くには、苦楽のような二つの対立に極端に偏らず、囚われない、真ん中の道を進む修行をする。」という、お釈迦様が示された大切な教えの一つです。お釈迦様は王子として生まれ、栄華を極めた生活を送っておられました。しかし、いくら「楽」を追及しようとも安心(あんじん)を得ることは出来ませんでした。出家をなさった後は、六年間に渡るとても過酷な体を苦しめる「苦」を追及する苦行をなさいました。それでもやはり、悟りを開くことは出来ませんでした。そこで、「中道」が悟りへの道であるとお気付きになられ、その後、菩提樹の下で坐禅を組み、お悟りを開かれました。
 私は、中道とは「無理をしないことだ」と考えていました。ですから、修行道場で長い時間坐禅を組んで足が痛くなると、「こんなに坐禅をするのは中道ではなく、苦行じゃないか。」と思っていました。そんなある日、長く修行をされていた先輩が、「皆、最近緊張感に欠ける。無茶はいけないが、少しくらいは無理をしろ」と仰いました。
 無茶と無理はどこが違うのか、辞書で調べますと、無茶とは「度を越していること」。無理とは「実現することが難しいこと」とありました。度を超える「無茶」はいけませんが、努力すれば実現可能であるのに、「無理はダメ」と最初から取り組まないことは中道ではありません。私は少しでも辛い、しんどいと感じるものは「苦」であり中道ではないと考えていました。しかし、それは「楽」に偏ることであったのです。
 私達の日々の生活においても、中道を歩んでいるつもりが、「無理はダメ」「難しい」「どうせ同じだ」と「楽」に逃れることはないでしょうか。お釈迦様はお悟りになられる直前、「私は悟りを開くまでこの座を立たない。」と、とても厳しい決意をされ、菩提樹の下で坐禅を組まれました。中道には、「なんとしても成し遂げる」という厳しさがなければなりません。
 サツキは、厳しい環境下でも美しい花を咲かせようと努めます。私達に、峻厳さを備えた中道というものを、身を以って示しているかのようです。

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