安心 あんじん
(出典:書き下ろし)
桜花爛漫の時節を迎え、各地では花見の人々で賑わっています。
仏教の祖である釈尊は4月8日、花の園ルンビニーでお生まれになりました。色とりどりの花が咲きほこり、マーヤ夫人は枝に咲いている花を取ろうとした時にゴーダマ・シッダールタ(後の釈尊)をお産みになったと言われています。
「美しき花を見んと欲せば、先ずその根を培へ」。一輪の美しい花が咲くということは、その花の根がしっかりと培われているから咲くのである。
これは、美しい花は人間としての幸せを現わしているのです。つまり、幸せという花を咲かせようと思えば、先ず人間としての根「こころ」を培わねば、幸せの花は咲きませんよ、と教えているのです。「こころ」を培うためには、三毒(貪り・怒り・愚痴)によって汚れた心を清浄にしなければなりません。人は計らいから全てのものに執着心を持ってしまう。諸々の欲に執着し、それが叶わなければ怒りとなり、人を困らせたり、傷つけたり、時としては殺したりもする。また、愚かな思いによって人々を迷わし、信頼を失なったりする迷いの世界、闇の世界を作り出しているのです。
本来人々は清浄なる仏とかわらぬ「こころ」を持ち具えているのですが、執着・迷いの世界に入り込み苦しんでいるのです。「小欲知足」の精神を培い、心の汚れを洗い流せば「幸せの花」を咲かすことができるのです。
イギリスの詩人ヴァン・ダイクの童話にこんなエピソードがあります。
ある時、一握りの土がおりました。彼は自分の生まれがよく、土質もきわめてよかったので、「自分はきっと美しい壺か小皿に仕立てられて、きれいなお姫さまにかわいがってもらえるにちがいない」と思っていました。ところが焼き上がったわが姿は、それは哀れな素焼きの植木鉢だったのです。
そしてある家に運ばれ、堆肥や腐葉が押しこまれてしょげかえっていると、自分のことをほめてくれる人がいたのです。不思議に思ってその訳を聞いてみると、「あなたの鉢から、世にも美しいユリの花が咲いているのですよ。そのユリの根はあなたの中にあるのではありませんか」と答えられ、植木鉢は初めて自分の存在に気づき、心から天に感謝したといいます。
世の中には自分自身が美しい花になりたがる人は多くいても、その根が培われなくては、花は咲かないのです。
私達はお互いが助け合い、日々の暮らしに感謝の念が芽生えて来たならば、必ず「幸せの花」は咲くのです。