法話

フリーワード検索

アーカイブ

一対の額

(出典:書き下ろし)

 私達は、物事に対して功利的に判断する事が多く、どうしても損得を考えがちです。そして、ともすれば自己中心的となり、また何かにつけて愚痴をこぼす様になり、気がつけば結局の所、何もしないで過ぎてしまう、という姿が現状ではないでしょうか。
 4年前の事ですが、台風による被害の為、解体、建て替えとなった蔵の中から、一対の額を取り出し、補修して本堂の柱に掛ける事にしました。「雲行不動尊」「水流観世音」と書かれています。流麗な草書で、私は字典を調べながらやっと解読出来ましたが、その意味が分からず悩んでいた所、ふと最初の2文字を逆にしてみると、「行雲流水」と読める事に気がついたのです。やはり、先入観や思い込みによって事に当たると、こだわりや、とらわれの心が生じ、柔軟な見方が出来なくなる事が分かりました。
「行雲流水」という句は、大きな広い青空に悠然と流れていく雲、よどむ事なく流れていく水の様子を、余す所なく見事に表わしています。禅の修行僧を「雲水」といいます。雲のいくが如く、水の流れるが如く一所に住する事なく、自然の中で自在に歩む姿そのものであるといわれます。この姿は、一生かけて仏道に精進する生き方であり、また、雲や水がゆったりと流れて行く様に、一切のものに執着せず、自由自在な心を持ち続けていく姿でもあります。
 「雲心」とは、自由自在にはたらく心、という意味です。本来の心のはたらきとは、自分の考えを相手構わず押し付け、自分の思い通り勝手に振る舞う事ではないはずです。私達はとかく、都合の良いものだけを取り込み、都合の悪いものは遠ざけようとしてしまいます。しかし雲は行き先にこだわらず、しかも、とらわれる事なく悠然と縁に従い、無心の姿で流れて行くだけであります。
 いつも、素直な心を持ちながら自分を見つめ、そして、人の為に尽くしていく事が、雲の心のはたらきなのです。それは、自己を真正面から見据え、思いやりの心をもって人に接する事に心掛け、この一生を修行の人生として進んでいこうとする生き方、そのものでもあります。

「一生坐禅すれば、
   一生の仏なり」

 聖一国師は「修行を捨ててはならぬ」と示されています。
 「行雲流水」の心を失う事なく、この一生は修行であると心得て、精進を続けていきたいと思います。

Back to list