福は内 鬼も内
(出典:書き下ろし)
今年も節分で豆まきをした。
「福さん、この部屋へおいで」という気持ちで「福は内、福は内、福は内」と小声で言いながら部屋の中へ豆をまく。そして次は、窓の外に向かっておもいっきり大声で「鬼は外、鬼は外、鬼は外」と鬼を追い払うような気持ちで勢いよく豆をまく。
すべての部屋をこうして豆まきをしながらいつも思う。「追い払われた鬼は行き場を失って、この寒い夜、かわいそうに」と。
だから近年は、「福は内、福は内、鬼も内、鬼も内」と言って豆をまく部屋をつくっている(大抵、自分の部屋であるが)。
こういう余裕が生まれてくるのは、長年、まがりなりにも仏道に精進し、み仏に合掌させていただいたおかげだと、感謝の念を禁じ得ない。
さて、この考え方は実は、四苦(生・老・病・死)を背負っている我々にとっては、大切な考え方なのである。例えば、病の苦しみ。生きている限り逃れることのできない病に、どう対処するのか。なおる病は医者にまかせればよいが、問題はなおらぬ病。年齢には無関係に、多くの人が不治の病をもっている。五臓の病もあれば足腰の病、心の病などなど、多種多様である。これらの病を敵(鬼)とみるか、それとも福(友達)とみるか。とらえ方によって人生が大きくかわってくるような気がする。
「高血圧さん、こっちおいで。無理に追い払ったりしないから」。
「高血圧さん、あなたは寒いのが一番つらいんでしたよね、コートを着て守ってあげますからね」。
「高血圧さん、今日の弁当、塩がからくてごめんね。あなたは甘口だったのにネ」。
こんな調子で高血圧さんの居場所を自分の体(心)の中に作ってあげて、友達のつき合いをすれば、高血圧という病の苦しみから多少とも逃れることができるのではないだろうか。
十年前に二十日間の断食をしたことがある。二週間位たった頃、何も食べていないのに、突然、洗面器に山盛り位の量の排便があった(いわゆる宿便といわれているもの)。血管などに付着しているものが全部便となって出たのである。びっくりした。体の中にこんなにいらざる物が蓄積していたとは。おもわず「胃腸さん、ごめんね。こんなに暴飲暴食して、一日も休ませてあげず、迷惑をかけていたんだね」とささやいたことがある。
昔は、腹が痛くなると絶食するか、または、お粥と梅干し。そこには「臓器を少し休ませてあげよう」といういたわりの考え方がある。現代は、痛み止めの薬を飲んででも食べようとする。決して臓器を休ませてあげようという発想は感じられない。
節分の時に言う「福」とは一体何か。「鬼」とは一体何か。よく考えてみたいものである。