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天地一杯の秋風

(出典:書き下ろし)

 秋も深まり、山々も色づいてまいりました。多くの人がモミジ狩りに足を運び、大自然の彩りに心を奪われます。けれども紅く染まったモミジの葉や、黄色く染まったイチョウの葉にしても、やがては儚く散ってゆきます。

銀杏散る 一切放下とはこれか

 村松紅花さんの句です。晩秋を迎えると木々の葉は枯れ始め、風に吹かれてパラパラと散ってゆきます。散りゆく一枚一枚の葉を眺めていると、まるで村松さん自身の迷いや苦しみが消え去っていくように思えたのでしょう。一切の執着から解き放たれた静かな感動が伝わってきます。
 私たちは知らずの内に迷いや苦しみを抱えながら生きています。一切の煩悩妄想を棄てきった時こそ、新たに何かを見出せるのかも知れません。
 禅の専門書『碧巌録』の中に、こんな問答があります。晩秋にある僧が尋ねます。「樹が(しぼ)んで葉が落ち尽くした景色はどうですか」。そこで雲門禅師という高僧、すかさず「体露金風(たいろきんぷう)」と答えます。「どこもかしこも天地一杯の秋風が吹いとるわい!」。
 ここで言う「樹が凋んで葉が落ちる時」は、私たちが抱えている煩悩妄想を振り払った時と見なければなりません。この僧にすれば、「迷いや苦しみという樹が凋んで、悟りだの禅だのと気負う重荷の葉を落とした時、その安らかな気分はどうですか」と聞いているのです。おそらくは、自分もそこまで辿り着いたとでも言いたかったのでしょう。ところが雲門禅師はあっさりと、「そう気張ってないで、この清々しい秋風をどこまでも心地よく味わったらどうだ」と指摘されているのです。
 私が修行をしていたある秋の事です。境内にそびえる大きな老木が枯れてしまいました。誰が見ても明らかに枯れてしまった老木を前に、老師(お師匠さん)が私に聞いてきたのです。「この樹はもう枯れてしまったか」と。老師は庭木をこよなく愛しておられました。枯れた老木にも勿論思い入れがあったに違いありません。残念そうにされている老師を見て、私はおもわず「まだ辛うじて生きているように思います」としか答えられませんでした。その時は何も気にならなかったのですが、あれから10年が経って、老師も亡くなられた今頃、不思議とそのことを思い出すのです。
 振り返ると、枯れた老木がまだ生き生きとしていた姿はあまり印象にありません。枯れ果てたその光景しか脳裏に映ってこないのです。そう考えると、「もう枯れてしまったか」という老師の言葉が、「大自然の生き生きとした姿をしっかりと見ておるか」という叱咤激励に聞こえてくるのです。
 一本の老木のみならず、春の芽生え、夏の涼風、秋の紅葉、冬の銀世界。刻々と移りゆく時間の中で、大自然のありのままの姿をそのままに感動していける澄み切った心を、私達は見失っていないでしょうか。
 雲門禅師にしても、秋風を心地よく感じるその瞬間こそ、もうそこに安らぎがあるじゃないかと、私たちに教えてくれているように思えるのです。
 晩秋に散りゆく葉が、執着を吹き払っている私たちの姿であるなら、それは大いなる安らぎを得る為の生き生きとした姿なのかも知れません。

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