安らかに生きるとは
(出典:書き下ろし)
長い間咲いていた、寺の庭にある百日紅の花が、ようやく終わりを迎えています。それは、今年も、夏が終わり秋を迎えたことを意味します。これから冬に向かっていくところです。そうやって季節は止まらず変わっていきますが、人間が変わらずに願うことというのは、安らかに生きたいということでしょう。しかし実際は物事のなりゆきに障害や不安があって、そうはいかない。しかもその不安というのは自分の外の世界で起こっていることで、「あの人がああしてくれれば解決するのに」と思っている方も多いでしょう。要するに自分の外的状況に対して、不安を無くして安らかになることを求めています。安らかという言葉の語源の一つに、「休む」あるいは「止す(よす)」から来ているというものがあります(『日本語源大辞典』小学館)。休むことも止すことも活動を一旦休止して立ち止まってみるということですが、禅宗の禅とはこのことをいいます。『普勧坐禅儀』には「万事を休息して」とあり、坐って休む、というのが坐禅です。
臨済宗の祖、臨済義玄禅師の語録『臨済録』には「求心歇(や)む処即ち無事」という言葉があります。「歇む」とは「休む」ということで、求めるということが止んだ、休んだ処の心が、物事にとらわれない無事という安らかさであるという意味です。
普段の生活をしていると、とにかく私達は求めることをしています。求めるということは、物事を二つに見るということです。自分と何かという二分化をして、お金を求める、名誉を求める、健康を求める、安全を求めるなど、このような求めることを全て含める形で、最終的には安らかさを求めています。しかし安らかの語源や「休む」「止す」や「求心歇む処即ち無事」の語にもあるように、安らかさというのは、求めるものではないのです。求める心が休まる・止む時が、本当の安らかで生きるということです。求める根っこは自分の心にあるのですから、その心の根っこのところが解って、求めるということを一旦休んでしまう。安らかという言葉の語源が「休む」「止す」から来ているということは、実はそのヒントであったのです。
山際淳司さんの「たった一人のオリンピック」(『スローカーブを、もう一球』角川文庫、所収)という小説にこんな文章があります。
使い古しの、すっかり薄く丸くなってしまった石鹸を見て、ちょっと待ってくれという気分になってみたりすることが、多分、だれにでもあるはずだ。日々、こすられ削られていくうちに、新しくフレッシュであった時の姿はみるみる失われていく。まるで――と、そこで思ってもらってもいい。これじゃまるで自分のようではないか、と。日常的にあまりに日常的に日々を生きすぎてしまうなかで、ぼくらはおどろくほど丸くなり、うすっぺらくなっている。使い古しの石鹸のようになって、そのことのおぞましいまでのおそろしさにふと気づき……
当たり前に思っていることでも「ちょっと待ってくれ、それでいいのか」と休んで止まってみることで日常の生活がまた違った味わいを持ってくる。この秋からやってみるのはどうでしょうか。