無常の中にいのちが輝く
(出典:書き下ろし)
梅雨空とともに美しく咲く「あじさい」の季節もそろそろ終わりを迎えようとしています。雨に打たれた葉にかこまれて、大輪ではあるけれども他を威圧するような派手さもなく、静かに咲いている姿は梅雨時の清涼剤と呼ぶにふさわしい花です。
日本でのあじさいの花言葉は「移り気」だとか。あじさいの花が、うす緑から徐々にその色彩を豊にし、青・赤紫…と、開花するにつれて色変わりすることから、移り気な花とされているのだそうです。それにしても、移り気とは、あまり良い評価を与えられる言葉ではないようです。それは恋愛中の男女の間にはあってはならない事でしょうが、実際の世の中は千変万化。変化し続けることが当然なのです。
仏教はこの理を無常と説きます。世間一切のもの、万象ことごとくは生滅してとどまることなく移り変ることを無常といい、いわば「滅びの哲理」とも理解されうる教えです。
『平家物語』に代表される滅びの美学をもった文学は、我々日本人の心に深くしみじみとした感慨を与えてきました。そして、この世を虚しいものと考える思想が我々の心の中に知らず知らずに影響していることも否めません。
しかし、無常とはただ虚しいもの滅びるものとだけ捉えるのはどうでしょうか。無常とはただに現成は変化し続けるという理(ことわり)です。草花が芽を出し、茎を伸ばし、たくましく生長して葉を繁らし、綺麗な花をいっぱいに咲かせるのも、この世が無常、つまり変化の中に現成しているからです。
柴山全慶老師(大本山南禅寺元管長)に次のような詩があります。
花は黙って咲き
黙って散ってゆく
そうして再び枝に帰らない
けれども その一時一所に
この世のすべてを托している
一輪の花の声であり
一枝の花の真である
永遠に滅びぬ生命のよろこびが
悔いなくそこに輝いている
花は無常の中に咲き、無常の中に散る。だからこそ、いのちの輝きがいっそう美しい。無常の中の一瞬一瞬に、いのちは全精力をかたむけて精一杯生きている。
無常なるが故にいのちは輝くのです。
ここにこそ、我々が学ぶべき無常の理があるのではないでしょうか。