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新年を迎えて

(出典:書き下ろし)

うめ 新年を迎えますと「今年の抱負」ということをよく見聞きします。みなそれぞれに立派な目標を掲げて一年を計るわけでいいことだと思います。事業家であれば景気回復を願ったり、学者であれば学業の成就を抱いたり、漁師であれば豊漁を願ったりと、その立場によって様々です。
 さて「年頭所感」を読む中でふと思ったことは「畢竟(ひっきょう)何だろう」ということでした。人間は結局のところ、何を求めているのだろう、ということです。これは一概に言えないことで、私は仕事に生き甲斐を感じている、私は趣味に精魂を費やしている、私は政治に全力をつぎ込んでいる・・・等々千人千様でしょう。登山家などは厳冬期に氷の壁を登るのです。本当に命をかけてするわけです。私の尊敬する写真家などは南極や北極まで行って写真を撮ります。何億というお金をつぎ込んで、厳しい環境ですから命を落とすような事は何度もあったというのです。でもそうした所に出掛けていく。人それぞれに価値観があって一律ではないのです。自らが「これだ」と思ったところに精魂を尽くしているのです。
 こうした人たちを見ていますとその努力と熱意、執念とまでいえる自己に対する責任感というものがひしひしと伝わってきて思わず溜め息が出てしまいます。「あー何と私はのんびりとした毎日を過ごしていることか・・・」と。しかし負け惜しみなのかもしれないのですが、そうした人たちの努力が畢竟何の為なのだろう、と考えるのです。有名な登山家たちの本を読んでみますと、確かにその熱意、知性、判断力、といったことには敬意を表するわけですが、一つの登山をクリアすると更に危険度の高い山に挑戦するのです。そうして結局遭難するわけです。遭難しないとしても一体何の為に過酷な事を自らに強いるのか、それが本を読んでもはっきりしないのですね。「自らを表現するためだ」とか「そこに山があるからだ」といった言葉では非常にあやふやなのですね。そんなあやふやな気持ちで命を賭けるのは勿体ないことです。 
 華厳経というお経に次のような問答があります。

質問「お釈迦様はなぜこの世にお生まれになられたのでしょうか」
答え「自覚する道があることをみんなに教え、その道を修め、その道を悟り、その道を楽しむためだ」

 分かり易く言うと、「この世に我々が生まれたのは何の為なのですか」という質問に「目覚める道があることを知り、その教えを修め、その道を悟り、そこに憩うためです」と答えています。もっと端的に言えば、「畢竟何なのか」という問いに「悟りなさい」と答えているのです。
 私はこの一連の問答が常に頭を離れません。人間どんなに厳しい山に登っても、どんなに過酷な状況を克服しても、結局自らを悟らなければ浮き草のように、あっちにふらり、こっちにふらりと止めどなく彷徨うだけだし、悪いことにはその彷徨っている醜い姿を人に自慢することにもなりかねないのです。なぜなら自らの不安を覆い隠すために人は自らの行いを正当化することがあるからです。
 そこで私のささやかな責任はと言うと「目覚める道がある」という第一点を常に再認識する事だと思っています。そしてそのこと
以外に私の年頭所感は無いなと感じています。

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