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足の裏

(出典:書き下ろし)

 釈迦眠る(あうら)に山を画かれて

 この句は俳人山口誓子が涅槃図に画かれたお釈迦さんの足の裏を見て詠んだ句です。涅槃図を見て詠んだ句は歳時記を見ても分かるように実にたくさんあります。でも、この句のように涅槃に入られたお釈迦さんの足の裏側を詠んだ句は珍しいと思います。涅槃図のお釈迦さんは所謂、頭北(ずほく)面西右脇(めんさいうきょうく)の姿で画かれています。そして、昔からその寝姿の功徳が語られていますが、足元で、お釈迦さまの最後のお弟子のスバッダがその左足にそっと手を置いた姿が語られることはあまりありません。
 誓子は、お釈迦さんの八十年の生涯で、一番尊いところをその御足とみたのです。しかも足の裏と捉えこの句を詠んだのです。足の裏に画かれた一本の線、つまり、土踏まずをお釈迦さん八十年の生涯の大山脈と見て詠んだのでしょう。俳人の目はスポットライトの当る体の部分ではなく最後に弟子となったスバッダが擦る足、それも足裏に関心がいったのです。そこに眼を向けることは他人の心の痛み悲しみが分かるという世界につながります。
 『涅槃経』には「他人の痛み悲しみがわかる心になれ。それを大慈大悲となづけて仏心仏法となる」と説きます。坂村真民の「尊いのは頭ではなく/手でなく/足の裏である/一生人に知られず/一生きたない処と接し/黙々として/その務めを果たしてゆく/足の裏が教えるもの/足の裏的な仕事をし/足の裏的な人間となれ」という詩はそんなお釈迦さんの足の裏から教えを詠ったものでしょう。私たちはややもすると光のあった人にのみ賛辞を贈りますが、その人を陰から支え舞台の裏で立ち働く黒子(くろこ)さんの存在を忘れていることが多くあります。お釈迦さんが最後にスバッダに説いた教えもきっとそういう足の裏に目を向けるという足心(そくしん)の教えではなかったかと思います。そんなことを冒頭の句から学んでおります。

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