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自然と環境

(出典:『南禅』(平成18年1月号))

 五時間もかけて汗を流して山頂に登ると、そこにケーブルが引いてあった。「何ということをするんだ、この美しい山を」と思わず非難する、それはいい。でもその人が登山口までどうして来たのかというと、2000CCの車で乗り付けている。これでは五十歩百歩でしょう。しかしこれが現実であり、笑うことは出来ないのです。どこまでを自然とするのか、その線引きは難しいのです。自然に帰れといったところで今更戻れないし、このまま進む訳にもいかない、どうしたらいいのでしょうか。
 人の性格は、大きく母性的性格と男性的性格との二つに分かれると思うのです。母性的とは総括的、内向的な面が強く、男性的とは個別的、外向的な面が強いということです。この分け方は、一国のあり方としても当てはまるところがあります。つまり西洋は男性的で東洋は女性的であるというように…。そして原始社会では女性的原理で統一がとれていたのです。つまり、収穫したものを平等に分配し、お互いが助け合って自然と共に生活していくことが出来たのです。ところがその中に抜け駆けをする者が現れてきた。効率よく、いいものを早く作る事を覚えたのです。これはみんなに喜ばれ、彼は英雄になった。そうなると彼は富を蓄え始め、多くの食べ物や土地を所有するようになった。ここに主従関係が出来て、母性原理の社会は崩壊したのです。
 現代は正に抜け駆けの全盛期です。一つのプロジェクトチームを作って、期間限定である研究をする。一時間でも先にゴールした者が英雄です。学校でも職場でもこの方法を伝授する。これを受け容れない者は落ちこぼれと見なされる。しかし、この原理に始めから馴染めない人がいる。人間本来のあり方でないことを、無意識に察知しているからです。人間の精神構造は、まず母性的性格から生まれ、男性的性格に目覚め、そこにしばらく住み、それから更に母性的性格を再確認し、そしてまた男性的性格の中で生きる。こうなるんじゃないかと私はいつも思っています。
 仏教で言う平等と差別とはここをいっていると思えるのです。平等とは一切の人はもう完璧に救われているということです。差別とは、そうは言うものの顕れている箇々の人々は皆違ったものであるということです。救われているというその土台、磁場のすぐ上で悩んでいる。磁場と私たちとの間に透明な絶縁体の膜がある。すぐ下に電流が流れているのだけれども気が付かない。しかし、常にその磁場の影響下にある。ただ時として意識が純粋になると、膜に少しの穴が空く。そこで僅かの電流が通る。これが感動なのだ。命の琴線に触れたところなのです。しかしこの膜は回復力が早く、すぐに新しい膜が再生され再び絶縁の状態となる。このように考えるのです。
 私たちが生まれてきたのは、大きな大きな母性的性格のところからなのです、そこが土壌であり磁場なのです。そこから芽を出し成長して葉を一杯に広げ、新しい世界を満喫する。風が吹き、雨が降り、雪に遭い、苦労もするけど楽しいのです。しかしここで満足しては楽しみが続かないのです。さらに、今一度自分の磁場を確認し、仮の磁場から本物の磁場に作り替える工事をしなくてはならないのです。
 抜け駆け原理の盲点は、この足下の再工事を怠ることにあります。安心、癒し、心、命、尊厳、生き甲斐…現代流行のこうした言葉は、みな一つのものを模索し喘いでいる姿ではないでしょうか。
 私たちは、今一度自分の立っている磁場を、はっきりと確認することが大事なのでしょう。つまり、一切は助け合っている姿なのだということを信じ、確かめるのです。そこを原点として、今度は世の中の不誠実さ、空虚さ、さらに悩みということを注意深く、根気よく見ていくのです。原点がしっかりしていれば、たとえ歩みは遅くても間違いのない前進なのです。原点を離れた探求は根無し草と同じで、すぐに枯れてしまうものでしょう。
 この磁場に至った所、これこそが人間としての尊厳であり、安心であり、生き甲斐であり、そして自然であると思うのです。この心をもって今度は、社会に出て自己の性格に応じて最善を尽くしていく、これが環境と言うことでしょう。ここでは、たとえ自然を損なうような事態が否応なしに起こっても、謙虚さと優しさをもって相対していけるのです。反省と懺悔があるからです。その誠実さは、山や川や草や木といった自然にも、必ず伝わっていくものでしょう。
清らかな流れ 自由といい人間尊重といいますが、その実体は甚だ不明瞭です。何でもしたいことを、皆が勝手にすることがそうだと言うならば、人類はその磁場を自ら捨てて、破滅の一途をたどることになるでしょう。
 「自ら欲する処に従いて(のり)()えず」という孔子様のお言葉があります。しっかりと磁場を確認した人は、自由に振る舞いながら、しかも人間として歩むべき道を外れることはないということです。ここが自由であり環境でありましょう。自由は深さを、環境は広さを意味する同意語だと私は思っています。

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