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もったいない

(出典:書き下ろし)

 2005年2月、「京都議定書」が日本でも発行しました。それに伴って2004年にノーベル平和賞を受賞されたアフリカ・ケニアの環境副大臣、ワンガリ・マータイさんが来日しました。
 マータイさんが日本を訪れ、出会った言葉が「もったいない」でした。マータイさんは小泉首相に「もったいないとはどういう意味ですか?」と尋ねられ、首相は次のように説明していました。

「食糧不足の時代に親が子供に対して『つくった人の身になって大事に食べなさい』といったことから来た考え方だ」(朝日新聞記事より)。

 私は、たまたまこの記事を新聞で読んだのですが、「日本の首相ともある人が、その程度の認識なのか」と、少々物足りなく思いました。「もったいない」は、けして「労働に対する感謝」という意味ではありません。
 勿論と無論が同じ意味であるように「勿」は「無」と同義語です。また「体」は「すがた」や「形」などを指します。
 よく「勿体ぶる、勿体をつける」などとも言いますが、「勿体」とは「すがた形が無いこと」であり、転じて「実体が無く、存在するが難しい」という意味であります。
 つまり「もったいない」と言うと二重否定にも聞こえますが、実は「もったいない」は「ありがたい」とほとんど同じ意味なのです。
 例えば、夕食のおかずに出されたお魚は、本来海の中で泳ぎまわっている存在です。ところが、何の因果かめぐり巡って、今、私の目の前のお皿に載っている。このお魚の生命を粗末にしてはもったいない、というのが「もったいない」の根本です。
 いいえ、生き物だけではありません。日本には付喪神(つくもがみ)といって、長く使われてきたお道具には魂が宿るという言い伝えもありますが、着る物、住む家、何もかも、大切に使えば何十年、何百年と使えます。しかし、乱暴に扱えばすぐに壊れてしまいます。やはり物にも生命があります。お茶碗一個でも大切に使わないともったいない。
 このように、かつての日本人は生物だけでなく、無生物にも生命を見てきました。つまり「もったいない」は「労働に対する感謝」ではなく、「生命に対する慈しみの心」から生まれた言葉なのです。
 戦後社会では様々なものが粗末に扱われてきましたが、やはり「もったいない」という日本人の心を忘れずに、全ての存在を活かしていく必要が、いまこそ必要であると思われます。そして、最も大切にしなければならないのが私たち自身の生命です。
 お釈迦様は『法句経』の中で「もし百年生きたとしても怠けていたならば、一生懸命生きた人の一日にも及ばない」と仰っています。
 どうか自分自身を活かすためにも、もったいない生命を大切にしましょう。

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