法話

フリーワード検索

アーカイブ

自分を見つめて

(出典:『南禅』(平成17年お盆号))

 数年前にテレビで某宗教団体が「修行をすると空が飛べるようになる」といって、坐禅をしたままジャンプをして見せたことがありました。信じられますか?坐禅をしたからといって空を飛べるようになるとか、何か不思議な力が出てくるなどということが有ろうはずもありません。では、何のために坐禅をするのでしょうか。
 皆さんは、学枚で勉強をしたりスポーツをしたり、友だちと会話をしたり遊んだりと、常に動いています。そのすべてが大切なことです。そのような日常の生活にあって何が一番大切かというと、自分を見つめる、自分の心を見つめるということが、最も大切なのです。この、自分の心に向き合う姿、それが坐禅です。
 しかし、日頃は色々なことに身も心も振り回されて、なかなか自分を見つめるという時間をもてません。自分を見失うと、とんでもないことをしてしまうことがあります。
 昔インドに、エンニャダッタという美貌の青年がいました。エンニャダッタは、自慢の顔を毎日、鏡に映しては自分でうっとりしていました。そして、何かこの顔で金儲けはできないものか、多くの美女に囲まれたいと妄想にふけっていました。
そんなある朝、いつものように鏡をのぞくと、どういうわけか自分が映っていないのです。驚いたエンニャダッタは、自分の顔が無くなったと思い込み、そこら中を走り回って探しました。すると柱で顔をぶつけて「痛い!あった、あった、ここにあった」と喜んだというのです。それ以来エンニャダッタは、今までのおごる心を悔い改めたということです。
 ばかげた話と思われるでしょう。これは他人ごとではなく、大なり小なり私たちは気持ちをもっているのです。欲に執着して妄想にふけると本当の自分を見失い、とんでもないことを起しかねません。テレビや新聞では、様々な事件が報じられています。これらはみな、自分の心を見失った結果です。私たちはそうならないように、自分の心に向き合う時間をもたなくてはなりません。
滝壷 皆さんの心の中に、池があると思って下さい。その池は本来、波もよどみもなく、すべてのものをありのままに映し出すことができます。そこへ石を放り込むと波紋ができます。これが感情です。たとえば他の人から「バカヤロー」と怒鳴られたとします。するとムカッとします。感情が生まれます。心の池に石を放り込まれたようなものです。それが心の中の波紋です。その波紋はそのままにしておけば自然に消えてなくなります。無理に止めようとすればするほど波紋は消えません。
 ここで気がつかなくてはならないのは、感情に流され、感情のままに動いてしまうと、どんどん波が荒くなり、取り返しがつかないようなことを起してしまうということです。感情という波紋ができたとき、まずその波紋が消えるのを待つことが大切です。
 道に咲く花を見て美しいと思う。それは花そのものも美しいのでしょうが、美しいとありのままに受けとめられるというその心がなくては、美しく見えません。皆さんは今回の修学旅行で、色んな所へ行き、たくさんのものを見て、美味しいものも食べたでしょう。良かったなと思うのと、面白くなかったと思うのと、どちらがいいと思いますか。当然、良かったと思う方が幸せです。本当に良かったと受けとめられる心がなければ、良い修学旅行にはなりません。
 雨の降る日は天気が悪いといいます。天気そのものにいいも悪いもありません。私たちが勝手にいい悪いと思い込んでいるだけです。いい日悪い日、いい人悪い人など、この世にあるのではなく、すべて自分の心にあるのです。
 心の池をしずめて正しく映し出すことができれば、自分にとってすべて良かったと受けとめることができるでしょう。そこに本当の幸せがあります。幸せは外にあるのではなく、自分の心の中にあります。そのためには一日一度は自分を見つめて、心の池をしずめたいのです。それが坐禅です。
 坐禅は、一度や二度ではいけません。できれば毎日坐っていただきたいのです。体が汚れれば風呂に入るように、服が汚れれば洗濯をするように、自分の心についた汚れも毎日洗いたいのです。服が破れればお母さんがつくろってくれます。体の傷はお医者さんが治してくれるでしょう。心についた傷は自分で治さなくてはなりません。
 今日、みなさんは坐禅の仕方を学びました。坐禅を通して自分を見つめ、自分の心のケアをして下さい。自分の幸せは、自分の心の中にあると自覚していただけたら幸いです。

Back to list