合掌のこころ
(出典:書き下ろし)
今年四月十三日、自民・公明両党が検討を続けてきた「教育基本法」の改定案が公表されました。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と、ことさらに異議を申し立てることはないような文面になっているけれども、これは、検討の過程で最大の問題となっていた「愛国心」の表現をめぐっての審議の結果であることを見逃してはいけないでしょう。
政府与党による「教育基本法」の改定は、「憲法」の改定とセットになって進められていることは明らかで、思えば、明治の「大日本帝国憲法」と「教育勅語」に謳われた、国家神道、国民道徳の思想が戦前の大政翼賛会を経て今日までこの国に、地下水のように脈々と流れてきていることを感じざるを得ません。平成の時代になっても、時の総理大臣が「日本は『神の国』で・・・・・・」などと失言したりするのですから。
オウム真理教事件をはじめさまざまな青少年の凶悪事件が起きるたびに、問題を根本的、多角的に分析することなく、自由や権利に対置させる形で道徳や倫理(多くの場合、「宗教」は言論の場では言われても、行政とか教育の現場では巧妙に脇に置かれて)の大切さを前面に立てて、いきおい教育基本法や憲法に短絡的に結びつけられてしまうわけです。
十年程前のこと。富山県内のある中学校でこんな投書がありました。学校で給食の時に「合掌」の号令をかけることに対して《「合掌」というのは元来、仏教の礼拝形式です。これを公立学校で行うことは、憲法、教育基本法に違反します》と、その改善を訴えるものでした。職員会議の結果、「価値観が多様化している時代だ、異論が出た以上はやめた方がいい」と、号令をやめることにしたという。(菅原伸郎「宗教をどう教えるか」朝日選書)
これは、現実社会における、宗教と道徳、自由と権利をめぐるひとつの例話です。
しかし、「合掌」は決して仏教だけの礼拝形式ではありません。神社でも教会でも合掌はします。
宗教的儀礼としてみるのではなく、「合掌」という行為は、私たち人間はたった一人では生きていけない、あらゆるもののおかげをいただいて「生かされている」という思い、宗教とか道徳とかをこえた、大いなるものへの感謝の表現としてとらえることが大切ではないでしょうか。世間では、「心の教育」がやかましく言われているけれど、もとより法律で規定し強制するものではなく、家庭、学校、社会の連携の中ではぐくんでいくものだと思います。
金子みすゞの詩
「大漁」
朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰮の大漁だ
浜は祭りのやうだけど
海のなかでは 何万の
鰮のとむらひ するだろう
私たちは、今、海のなかに思いを馳せることを忘れて浜の祭りに踊っているのではないでしょうか。