懺悔文『華厳経』
(出典:書き下ろし)
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔
只今、「懺悔文」をお唱えしました。毎日の生活を円満に過ごすためには、どうしても犯してしまう悪業があります。「嘘」はその一つではないでしょうか。あげればきりがありませんが、自分が気づかないうちに多くの罪を犯しているのです。それに気づいて反省することは、そう簡単なことではありません。しかし、その罪に気づいたら仏さまの前に懺悔するほかありません。ですから、先ず自分自身に対して「懺悔文」を最初に唱えさせていただきました。
自分自身を冷静に見つめ、気づいたことに反省と謙虚さがあるのではないでしょうか。同じことを二度と繰り返さないように誓う“こころ”が生まれます。私たちには、誰でも過失があります。思い違いもあります。しかし、それらをそのままにしておかないで改めるために「懺悔文」があります。
「懺悔文」では、諸々の悪業は全て貪瞋癡に由る。身口意より生ずる。といっています。たとえば、「嘘」を例にあげると、嘘という言葉に決して良い印象はありませんが、慶応大学の檜谷明彦教授は、日本人のつく「嘘」を三つに分けて説明しています。
一、自分が属している集団への忠誠心から出る嘘。
二、自分一人の利益を得るための嘘。
三、お互い納得した上で楽しむ嘘。
この三つの嘘を自分自身に置き換えてみてください。嘘をついてしまったとき、嘘をつかれてしまったとき、「身体でどう感じたでしょうか」「言葉でどう感じたでしょうか」そして「“こころ”でどう感じたでしょうか。」決していい気分はしなかったはずです。たった一つの嘘を突き通すために重ねた嘘は、いったいいくつになるでしょうか。どんどんどんどん大きくなって、あげくの果てに取り返しがつかなくなってしまいます。そのような事件報道を毎日のように耳にします。これは、自分自身のこころだけではなく、周囲の人のこころまで苦しみへと追いやってしまうことになってしまいます。こんなに苦しいことだとわかっているのになぜ嘘をついてしまうのでしょう。
それは、むさぼるこころ・いかるこころ・おろかさのこころがあって身体やロやこころが認識して行動という結果がうまれるからです。
その苦しみへと追いやってしまったのは、紛れもない自分自身のこころなのです。しかし、そのままにしてはいけないと反省・懺悔できるのも自分自身のこころなのです。
詩人、八木重吉の詩を紹介します。
「こころよ」
こころよ、では行っておいで。
しかし、また戻っておいでね。
やっぱりここがいいのだ、
こころよ、では行っておいで。
つまり、もしも誤って悪いことをしてしまっても反省することが大切です。そして、それを実行していくことが更に大切だということを歌っているのだと思います。私は、このように解釈させていただきました。
“こころ”のあり方は、一言では言い表せない難しく重要な問題でもあります。こころ―つで悪業になったり、善行になったりします。更に言えば仏のこころにもなれるのです。
「白隠禅師坐禅和讃」に「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて・・・」とあります。衆生は本来仏だ。水と氷のようなものだといっています。仏教の基本的な考え方です。仏が迷うと衆生になり、衆生が悟れば仏になる。どういうことかというと、反省・懺悔するのが一段目、戒を守るのが二段目、それを生活の中で実践するのが三段目、そして、悟りに目覚めるのが四段目。階段を一歩一歩踏みしめて上がっていく精神が大切だということです。
『大智度論』に、
智目行足をもって清涼地に至る
とあります。しっかりと自分の足元を見て歩きなさい。ものを正しく見る目を持ちなさいといっています。
私たちは、ほんのふとした瞬間、一瞬にして悪業のこころになる可能性を誰しもが持っています。こういった「こころのあり方」を支配しているのが“こころ”なのです。もしも、その悪業に気づいたら、先ず「懺悔文」を唱えて下さい。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔