いうな地蔵
(出典:書き下ろし)
私の住んでいる福井県は、嶺北と嶺南という名で大きく二つに分けられ、その分岐点が木ノ芽峠周辺だ。この奥行きの深い山嶺は、かつて都と北陸道諸国とを結ぶ交通の難所だった。気候風土や方言なども、ここを境に様変わりする。木ノ芽峠(標高628メートル)を通る北陸道は、平安初期に開削された古い官道で、敦賀から今庄へ抜ける最短路。道元禅師や親鸞聖人、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉らの戦国武将、さらに江戸時代には芭蕉がここを通った。戦国時代には、この近辺にいくつもの城が築かれ、信長と朝倉勢、一向一揆勢の戦場になっている。その木ノ芽峠付近に「言奈地蔵」という珍しい名のお地蔵さんが安置されており、それは弘法大師の化身であるともいわれ、興味深い逸話が残されている。
昔、大金を所持した旅人を乗せて、木ノ芽峠を越えた馬子(昔、おもに、人を乗せた馬を引くことを職業とした人)がいた。寂しい峠越えだ。馬子は周囲に人気がないのをいいことに、その旅人を殺して金を奪った。そして周囲を見回すと、確かに人はいなかったが、そこには一体のお地蔵さんがおられた。旅人は苦笑いしながらたわむれに、
「おい、そこの地蔵、今の一部始終を見ていたかも知れぬが、この事は人に言うなよ」
とひとり言を言って立ち去ろうとした時、お地蔵さんが、
「地蔵は言わぬが、おのれ言うな」
と返事をされた。驚いた馬子は腰をぬかしそうになりつつ、その場を這いながらやっとのことで峠をあとにした。
その後、年を経て再びその馬子がこの峠を越した時、年若い旅人と道連れとなり、よもやま話をしてお地蔵さんの前に来た。その霊験あらたかなお姿を見て、馬子は感きわまって思わずぬかづき涙を流し始め過去の過ちを悔いた。旅人は不思議に思い理由をたずねると、馬子は先年の悪事を語り、ありし次第を告げた。お地蔵さんの忠言どおり、馬子は自身の口で「地蔵は言わぬがおのれ言う」羽目に陥ったのである。はたしてこの旅人こそ先年殺された旅人の息子で、親のかたきを尋ね歩いていた。息子はやっと見つけて嬉しかったが、このような山中では気が引けるので、共に敦賀まで降りてから名乗りをあげてこれを討ちとったとのことである。
この話は現代の我々にも通じるところがある。うちのお寺は海水浴場が近いが、いつも砂浜に心ない人たちによるゴミが散乱している。またお寺の隣に竹やぶを挟んで車道があるが、竹やぶにも空き缶やゴミが絶えない。誰も見ていないからという考えでは、程度の差こそあれ前出の馬子と何も変わらない。いつも新聞の社会面を賑わしているうんざりする事件にしても大同小異である。
誰も見ていないから悪いことをする、これほど醜い悪行があろうか。誰も見ていないからこそ善いことをするのが人間本来の姿。禅では古来より陰徳を積めとうるさく言われる。陰徳はめだたぬように、きわだたぬように、さりげなく、ひっそりと自分のなすべきことをすることだ。
さてその禅の初祖は達磨大師だ。達磨は、西暦520年ごろお釈迦さまのおられた国インドから海路中国へ渡り、禅のこころを伝えに来た。ときの梁の武帝は仏法に深く帰依していたので大いによろこび、達磨を首都金陵(南京)の宮中に招いた。そして、
「私はお寺をたくさん建て僧侶に供養してきた。どんな功徳があるか」
と達磨に問う。達磨はにべもなく、
「どれもこれも功徳にならん」(『五灯会元』より)
とつっぱねる。功徳を期待してするなら、どんな善行でも役にたたない。褒められよう、ニュースに出されようとの物欲しさの心が、せっかくの善行をマイナスにする。エゴ的行為を信心の名で美化しようとする醜悪さを、達磨はズバリと抹殺する。
自分の善行をひけらかす、また隠れて悪いことをする。そういう人は他人の目を気にして自分自身を裏切っている愚かさに気がつかない。これは今の小中学校のボランティア活動にも似たようなところがある。(*参照)その記録が残され受験のとき志望校へ提出する内申書に反映される制度になっているらしく、子供もそれを承知の上で活動に励む。それではたしてボランティアと呼べるのか。そういう制度にしてしまった大人の浅はかさ、あるいは前述の事件やゴミのモラルの低下など、根本的におかしい風潮の現代社会。それこそ言奈地蔵の天罰が下りそうだ。
陰徳とはひらたく言うと人や物を大切に粗末にしないこと、また人に尽くし、物を活かして使うことだ。するとその人には人徳が具わってくる。人徳とは「人がら」のこと。人がらはその人の持ち味だから、読書や聴講などだけで得られるものではない。理屈ではなく陰徳という行為、経験の積み重ねによって人徳が形成される。言奈地蔵の教訓を生かした、こころの開発を期待したい。
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*高等学校入学者選抜においては、これまでも調査書は重要な資料として取り扱われてきているところであるが、その一層適切な活用を図っていく観点から、学習成績の記録だけでなく、例えば、特別活動の記録、学校内外における文化・スポーツ活動やボランティア活動の記録、趣味・特技の記録、運動能力の記録などといった様々な活動の記録を積極的に評価したり、また、学習記録についても、各高等学校や学科の特色に応じて、異なる方法によって評価するなどの工夫が望まれる。
「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」
(中央教育審議会第2次答申1997年6月)より抜粋
カット 左野典子