法話

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拝まれる自分に

(出典:書き下ろし)

人は、拝まれるから仏になるのである。
亡き人の代わりに仏を拝むのである。
その仏は、己の心の中に居る。
自己が自己を拝む、拝まれる自己を生きる事が大切である。

 明恵上人は、他人の欠点や過失が気になったり、それに興味を持ったり、人の噂話が面白い時、実は自分の中味がガランと空洞のようになって、虚ろで潤いがないから、他人の過失が面白いのだ、と言っています。みるという字も、ただ見えている、見る・観察して観る・考察して観る・見守り看る・調べ診ると様々あります。同じものを見ても人によって受け止めかたが違います。その中から必要な情報を的確にキャッチすることが、よき生き方につながるのです。
 自然が自然でなくなっている生活環境、他を見ないですむ感化現象、生活リズムの高速化、利便性のよい住宅構造等々私達の生活空間は大変便利になっています。それなのに人々は不安を抱いている。
 例えば今「あなたは人生をどう生きていますか」と問われたらどう答えますか。その答えは様々でしょう。「充実しています」と答える人。「いやぁ今ひとつ」と言葉を濁す人。「今落ち込んでいるのですよ」「どうしていいかわからないでいる」という人。病気で苦しんでいる人は、何で自分だけがこんな目にあわなければならないんだ、と悩み愚痴る事でしょう。
 良寛様のように「苦しむ時は苦しむがよきに候」と言っていますが、中々そう達観出来るものではありません。ありのままに受け入れる事が出来ないところに、悩み苦しみが生まれてくるのです。しかし人は皆、何も持たずにこの世に生を受け、何も持たずにこの世を去ってゆくのです。その間多くの恵みに支えられてその生命を維持しているのです。この事実に気づく事が自己の生命の活かし方や人生の過ごし方を見いだす基なのであります。
 自己の生き方を味わうことなく過ごさず、自己の存在に目覚めて生きる生き方を常に探る必要があります。そうした生き方をしている人が、拝まれる自己へと成長してゆくのではないでしょうか。

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