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四恩の大切さ

(出典:書き下ろし)

 恩という字は、原因の下に心と書く。原因を心にとどめるという構成である。恩とは、何がなされ、今日の状態の原因は何であるかを心に深く考えることなのである。もっと簡単に言えば、してもらったことを思い出すことである。お蔭さまの心である。
 恩の考え方は、ややもすると、封建的な古い考えであると思う人があるが、それは恩の正しい意味がわかっていないのである。
 中国の諺に「恩を受けて恩に酬いざるは禽獣に等し」とあり、恩知らずを罵っている。
 ところで、我が国に欧米から権利とか義務の思想が近代になって入ってきて、民主主義の根幹となった。しかし、それが近頃では、権利だけを主張し、義務を忘れるという身勝手な風潮が蔓延するようになってきたのである。
 物が豊かになり、福祉が充実してきた今日の繁栄の裏には、その享受を当然と考える人は少なくない。当然だと思う気持ちには、感謝の念は湧かない。そして、恩を忘れると権利ばかり主張するようになる。権利・義務には他への厳しい要請があるが、恩は自覚するものである。
 恩について、仏教ではさまざまな経典に説かれている。『正法念処経』には、母の恩・父の恩・如来の恩・説法法師の恩の四恩が説かれているし、『大乗本生心地観経』では、父母の恩・衆生(社会)の恩・国王(国家)の恩・三宝(仏・法・僧)の恩の四恩を説いている。
 また、同じく『大乗本生心地観経』には、父母の恩・師長(先生)の恩・国王の恩・施主の恩という四恩も説かれている。
 人の人たる道は恩を知り、恩に報いるべきと四恩の経典は説いている。
 弘法大師は、「恵眼をもって観ずれば、一切衆生は皆これ、わが親なり」と説き、道元禅師は「一切衆生斉しく父母の、恩のごとく深しと思うて、作す所の善根を、法界にめぐらす。」と仰せられた。
 自分の生命を知り、家族の力添えを知り、社会の仕組みを知れば、恩にゆきあたる。他に厄介をかけずに生活はできないのである。
 今から十年位前に、臨済宗の寺院であったエピソードをご紹介する。
 それは、ある寺院で大きな法要があり、一派の管長様を特別にお願いをされた。
管長様は、三百人程の檀家さんの前で、父母の恩・国の恩・師の恩・衆生の恩について法話をされたのであるが、そのお話を聞いていたある大学生が手を挙げ管長様に、
 「質問してもよろしいでしょうか?」
 と訊ねた。お許しが出たので、その大学生は話を始めた。
 「私は恩なんて必要ないと思います。国の恩なんて、国民は税金を払っているのだから、国がサービスをするのは当然である。師の恩なんて、私たちは授業料を払っている。また、親の恩なんて、頼んで生んでほしいと言ったものではない。勝手につくったものである。それよりも、お金が大事。お金があれば何でもできる。だから、勉強して良い会社に就職して高い給料をもらう。そして、いつかは社長になる。やはり、お金が一番。恩なんて関係ない。」
 このように言ったものだから、周りの檀家さんはびっくりし、堂内は騒然となった。そして、管長様は、どのような答を出されるか誰もが注目をしたのである。
 管長様は一言、
 「お前さん、いくら欲しいのか?」
 と。大学生は、理屈で答えが返ってくると思っていたので、予想外の言葉に驚き、焦った。
 「一千万円か?一千万円やるぞ。その代り条件がある。」
 大学生は一千万円もらえるというので心が動いた。
 「条件て何ですか?」
 「お前さんの命をよこせ。」
 「一千万円位で命をやれるものですか。金なんかで命は売れませんよ。」
 すると管長様が怒って、
 「その大事な命は誰から頂いたものだ。父母だろうが。その命を育てたのは誰か。先生じゃないか。平和の国におられるのは誰のお蔭か。お前さんは自分のことばかり言っている。恩を忘れた者は餓鬼という。それが解らん奴はここから出て行け。」
 と一喝された。大学生は困ってしまったのであるが、後日、彼は
 「管長様のお蔭で目が覚めた。あの時、管長様とお出合いし、叱られて本当に良かった。」
 と語っている。今は立派な社会人である。
 理屈は言うが、命というものを全く考えず、命があるのが当り前というのが前提になっている。当り前になって感謝がなくなっている。今は恵まれすぎて、何もかも当り前になり、有り難みがなくなっている。
 人間は、一人で生きていくことはできない。たくさんの人に支えられているから、生きていけるのである。世間は、恩という陰の力が働いている。その力によって私たちは、生かされているのである。
 カット 左野典子

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