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頼れる自分に

(出典:書き下ろし)

 エトの話材を調べていて面白い言葉に出会いました。
 中国に「(せき)(いぬ) (ぎょう)に吠ゆ」との古い(ことわざ)があるとか。『戦国策』等に見えます。跖とは、史上最悪の大ドロボウの名前。堯は、古代中国の伝説上の聖天子として知られます。つまり、悪人に飼われる犬は聖人君子にさえも吠えかかるものだ、というのです。もちろん、犬に正邪の区別がつくはずはないのですが、人間には是非を感じとり判断する素晴らしい力が具えられております。
 にもかかわらず、人間は時として、目先の利害関係や直接の上下関係などにとらわれて判断を誤り、結果的に悪に加担し善を(はば)むことがある――との寓喩(ぐうゆ)です。何やら昨今の粉飾や偽装、高官の汚職などの事件に通ずるハナシです。
 では一体、私達は判断にあぐねた時、何をその基準にしていけばいいのでしょうか。
 実はこの問いは、そのまま、釈尊入滅後のことを心配する阿難(あなん)(そん)(じゃ)の問いでもありました。『遊行経(ゆぎょうきょう)』に詳しく語られます。
 釈尊の臨終がさし迫ったことを知り、未だ確信の得られていなかった阿難尊者は焦りました。そして、病み疲れる高齢の釈尊に泣きつきます。
 後世有名な、「()帰依(きえ)(ほう)帰依(きえ)()灯明(とうみょう)(ほう)灯明(とうみょう)」の教えが、この時説かれました。
 法(教え・真理)を灯明とせよといいます。加えて、自らを灯明とせよというのです。それは、灯明として信頼をおける自分自身となってゆけとも受けとれます。判断にあぐねた時こそ、心を静めて本当の自分と向き合い、その声を聴きとって、自らを基準としてゆきなさい、とも。
 仏教の根底には、悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)の思想があります。成道の折り、釈尊は「何と不思議なことか。誰もが如来の智慧徳相を具えている。ただ、煩悩・執着によって、それが見えなくなっているのだ」と、驚きの声をあげました。白隠禅師も、ずばり「衆生(しゅじょう)本来(ほんらい)(ほとけ)なり」と謳いあげます。
 阿難尊者に対する釈尊のお示しは、改めて何か新しい知識を得よ、というのではありませんでした。心の曇りをどう除き本当の自分にたちもどってごらん、ということだったのです。
 二月十五日は、釈尊の御涅槃(ねはん)の日です。 本当のワタシを見つめなおしたいと思います。

 あれっ?では、犬には仏性が有るのでしょうか? ウン? それは、どうぞ、坐禅をして御自身で確かめてみて下さい。

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