生きとし生けるもの 幸いであれ
(出典:書き下ろし)
禅寺のお正月は、『大般若経』を読むことに始まります。大般若経といえば、その六百巻の教えをわずか二百七十六文字に集約したお経が、最もポピュラーな『般若心経』なのです。お導師※さまは、『大般若経』六百巻の第五百七十八巻「理趣分」を一心に訓読していただきます。その間、その他の僧は、二十巻~四、五十巻の般若経をあずかります。一巻ごとに両手で捧げもって、先ず始めに『大般若波羅蜜多経巻第○○、大唐三蔵法師玄奘奉詔訳』と大音声で称えます。続いてご真言を称えながら、右へ三回、左へ三回、正面へ一回、パラパラと風を送り込むかのように経典をめくります。これを転読といいます。経典を綴じるに当たって再び眼前に押し頂いて『降伏一切大魔災障成就』と祈りと願いを込めて大音声で称えます。
みんなの心を一つにして世の中すべての過ちを心より懺悔し、お釈迦さまの大きな願いの通りに、いのちあるもの全てが平安で幸いに恵まれるようにと祈るのです。
「人様の分まで懺悔するなんて、何やいな。けったいな話や。」と、思われるかも知れません。でも、今の世の中を見ていると本当にそういう人の在り方を取り戻して行かねばならないと思うのです。
このままでは、人の上に立って人々を導くべき人が、人びとの汗と涙の結晶を掠め取り、商いの心得は、「売り手良し、買い手良し、世間に良し」と心得るべき大手の商社がいつの間にか儲けさえすれば粗悪品を売り、いつ壊れるか分らない巨大建造物を名前貸しをして信用を高める不実な建築業者をはびこらせる結果を招いてしまう。
誰かが悪いと言う前に、「この私は、どうなのか」をみんなが問い続け、「世の人々の平安と幸いを願う」その時、社会のあり方が変ると信じて自らのあり方を問い続けて行きたい。それが仏道です。
どなたにでもお経を手にされなくても懺悔はできます。祈りもできます。願いを込めて祈って参りましょう。「生きとし生けるもの幸いであれ」と。
※導師…法要の際に、正面の拜席について法要を主催する人。
※真言…梵語による呪文。
画…『雲水日記』(禅文化研究所発行)より