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ブッダガヤ道中物語

(出典:書き下ろし)

インド ブッダガヤ 私は毎年12月になると、平成元年にインドを訪れた事を思い出します。「成道会(じょうどうえ)」にあわせての聖地参拝でありました。
 「成道会」とは、お釈迦さまが12月8日ブッダガヤの菩提樹の下で、お悟りをひらかれた日であります。
 インドは経済的にも貧しい国で、路上生活者の多い事でびっくりしました。平等を説かれたお釈迦さまの国でありながら、今もなお階級差別(カースト)が激しく、貧しい階級に生まれたら、どんなに努力をしても、学問も就職することもできません。
 ブッダガヤへ参拝するための道中、「お恵みを!」という叫びとともに、垢に汚れた骨と皮ばかりの手が、私の体を左右から、上下から取り囲みました。思わず頭陀袋(ずだぶくろ)をさぐってみましたが、硬貨一枚、飴玉一つも入っていません。今日食べるものもないこの飢えた人々に、裸の裸足のこの子たちに、何かあげたいと思うのに何もしてあげる事のできない自分の無力を責めながら、「ごめんなさい!何もさしあげるものがないから許してください!」と、そんな思いを込めて私は無意識に「ナマステ」と、物乞いの人々の群れを拝みました。
 「ナマステ」とは、インドの挨拶の言葉です。「ナマ」とは「南無阿弥陀仏」の「南無」で、「あなたを拝みます」という意味で、必ず合掌して言います。「おはよう」も「ごきげんよう」も「さようなら」もこの言葉一つで通じます。これしかインドの言葉を知らない私は、万感の思いを込めて、合掌して「ナマステ」と挨拶したのです。
 驚いたことに「お恵みを」と差し出されていた何本もの痩せ衰えた手が、さっと合掌の手に変わり「ナマステ」と応えてくれるではありませんか。そのこけた頬、おちくぼんだ目には笑みをたたえて。
 生涯を物乞いで生きなければならない運命の人々。時にはわずかな施し物にありつけても、多くは厭われ、しいたげられ、振り払われる生涯の中で、物乞いをした相手から「ナマステ」と声をかけられ、拝まれるという事は、多分なかったのかもしれません。
 差し出した手に何も載せてはくれなかったけれど、代わりに「ナマステ」という挨拶と合掌が返ってきた。思わず手をひっこめて「ナマステ」と合掌してしまったのだと思います。いつの間にか顔もほころんでいたというのが事実かもしれません。
 物を差し上げることは出来なかったけれど、お釈迦さまのお示しである、微笑を施す「和顔施」(わげんせ)になっていたのかもしれません。愛の言葉、慈しみの言葉を施す「愛語施」(あいごせ)になっていたのかもしれません。
 この体験は貴重なもので、この時私はふと「挨拶」という言葉の本来の意味を思い出させていただきました。「挨拶」とは本来、禅の言葉で「挨」は積極的に迫っていくこと、「拶」は切り込んでいくことを意味します。
 つまり修行者が指導者に問題をもちかけて真剣に答えを求めるときや、指導者が修行者との公案(老師に見解を点検してもらう臨済宗独特の教育課題)により修行者の心の奥底に眠る仏心を引き出し、目覚めさせる働き、つまり私や皆様の中に眠るもう一人の私を引き出し、目覚めさせる働きかけのことをいうのです。
 さて、日常の生活の中で、「お大事に」「ご機嫌いかがですか」と、真心込めて相手の安否を尋ねる心の余裕をお持ちですか。挨拶も出来ない人が多くなってきた、という世の中になりつつあるのは残念です。
挨拶は生活の潤滑油。心嬉しい挨拶を交わして、多くの人と接する機会の多い年末年始を送りたいものです。

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