随処に主となれば
(出典:書き下ろし)
随処に主となれば 立処皆真なり
この言葉は、臨済宗の祖である臨済義玄禅師の言行録である、『臨済録』という書物の中、示衆の一七に出てきます。
どんな会社にいても、どんな仕事であっても、自分が主人公となって(積極的に)行うならば、そこでの生き様はすべて真実である、というような意味です。
私は現在京都花園にある、臨済宗妙心寺派が経営する高校生大学生の寮、花園禅塾の塾頭をしています。ある日、大学の一回生のA君が私の部屋にやって来て、この言葉について質問したのです。何でも英語の先生(教授)が、随処に主云々を解り易く訳して、英語で表現しなさいと言ったとか。
ずい分難しいことを言うなと思いながら、三日位二人で考えましたが、程々のところで結論を出しておいたのです。禅語を、修行の体験も無い学生にあまりあれこれ言うべきでは無いし、私自身少々自信が無かったからです。「どこでも主体的に」と言うと、我がままともとれる、仕事や生き方を積極的に、だけでは道徳的なだけで面白く無いのです。そこに仏心が必要であると言っても、何か手前味噌で説得力に欠けますね。
そんな事があったある日、禅塾の隣にある花園高校の子供達が八人、禅塾にやって来ました。サッカー部の生徒達です。
春先から新しくコーチを入れて、厳しい練習をし、秋の京都府大会にベスト8を目標にかかげているのです。何か心の支えが必要だというので、妙心寺のお守り袋を渡そうということになりました。
ただ渡すだけでは面白くない、お経を読んで供養する場に彼らも立ち合ってもらい、応援する妙心寺の心を、合わせて受け取ってもらおうと、呼んだのです。
仏間に彼らを案内し、指導員二人にも手伝ってもらい、どうせやるなら本格的にと、正装して準備していました。すると、大学からたまたま帰って来た学生達が四人、面白そうだから手伝わせて下さいと申し出てくれたのです。思わぬ助っ人で、法衣を着た者が七人となり、目を白黒させている高校生の八人とで合計十五人の立派な法要になりました。
お経を誦み、皆が焼香をし、最後に指導員が作ってくれた小さなサッカーゴール(儀式を盛り上げようと作ったのです)を前卓の上に乗せ、小さなボールをキャプテンが手でころがすその時、誰かが「決めろ!」と小さな声で言いました。
この時の主役は、キャプテンとサッカー部の高校生達です。が、学生達も指導員も私も、脇役の喜びを感じていたのです。自然に皆が拍手をしました。
喜びも悲しみもわかち合う、それぞれの立場 随処に主となれば 立処皆真なりと。