瞎驢眼
(出典:『琉璃燈』(平成12年9月9日発行))
大本山黄檗山萬福寺に一度でも登山された方なら、宗祖・隠元禅師がお祀りされている開山堂をお参りされたことがおありかと思います。萬福寺の三門を通り抜け左手の通玄門をくぐると、右に中和井園、左に松隠堂、中央には御影石の敷石が続きます。正面の開山堂の、威風堂々とした姿、特に青い空に聳える雄姿は圧巻で、まさにそこは心洗われる空間です。
この素晴らしく、荘厳な開山堂の正面、重層屋根の間に、隠元禅師のお師匠であらせられる費隠通容禅師の、雄渾な筆による「瞎驢眼」の大額が掲げられています。以前、私が本山・宗務本院で主事としてお世話になっていた折、山内案内の時にこの額を指して、「どなたかあの文字を読める方はいらっしゃいますか」と、意地の悪い質問をしたことを思い出します。
「瞎驢」とは「目の開かない驢馬」のことで、「瞎驢眼」は「未だ目の開かない驢馬の眼」ということになります。これは、禅の師匠が未熟な弟子に対して吐く言葉で、禅の祖師方はこのほかに「飯袋子(能無しの無駄飯食い)」や「擔版漢(視野の狭い偏見持ち)」などの激しく厳しい言葉を用いつつ、弟子たちを叱咤激励して、禅の正道へ導いたのです。
実は、臨済宗の祖であります臨済義玄禅師も示寂(亡くなる)される間際に「瞎驢」という言葉を吐いておられます。『臨済録』によると、高弟の三聖に向かって
誰か知らん、吾が正法眼蔵、這の瞎驢辺に向かって滅却せんとは。
(わが正法眼蔵は、無眼子の驢馬のような弟子の代で絶えてしまうだろう。)
と言われたとあります。
普通に見れば、腑甲斐無い弟子たちを責めて、正法が絶えてしまうことを嘆いているような意味に取れますが、実はこの言葉の裏には「滅却しようにも滅却できない正法眼を明らめて、正しい法を広めてくれ」という、弟子たちに対する限りない期待と願いが込められているのです。この手法は「抑下托上」といって、表面は悪辣な激しい言葉を投げかけながらも、実際はその短い言葉の裏に、この上なくその相手を尊重し、その人の価値を高く評価する意を込める禅独特の、大変高度な言葉の用い方です。
ただそのような特殊な禅の言葉づかいは別としても、ここで私たちにとって大切なことは、私たちが日常生活の上で遭遇する厳しい言葉や激しい言葉を、私たち自身がどう受けとめるかということではないでしょうか。人は誰でも、自分に対して厳しい言葉や激しい言葉を向けられるのはいやですし、避けて通りたいことですがほんとうにそれでよいのでしょうか。