まるく・きよく
(出典:『琉璃燈』(平成11年6月1日発行))
圓なること、中秋の月に似、淨らかなること、水を出づる蓮の如し。・・・・・人心、豈然らざらんや。
これは、『普照国師広録』にある、宗祖隠元禅師が本山に晋山されて間もないころの、ある上堂(法堂に上っての説法)でのお言葉です。「円なる」とは、まんまるいということ、「浄らかなる」とは、清らかで澄みきっているということ、そして「人心」とは字のごとく、人の心、自分(己)の心ということです。「みなさん、お互いの心は、果たして清く円やかでしょうか、いかがでしょうか?」と、皆様にその心のあり方を問うておられるのです。確かに、秋の夜空に皎々と輝く十五夜の月(中秋の名月)は、まことにまんまるですね。まんまるくて角がありません、角が立っていませんね。また、お盆に仏様にお供えする蓮の花は、実にきれいで、美しいピンク色をしていますね。なぜ、人々の心がそのように「まるく、きよく」なければならないと、ご開山様は教えられたのでしょうか。
いつも坐禅の際にお唱えする『白隠禅師坐禅和讃』の中にヒントがあります。
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
の句の中で、衆生を氷に例え、仏を水に例えて、氷の成分を替えることなく水となるように、吾々衆生がそのまま仏様となることができますよ、精進・努力をすればという意味です。ご存知の通り、氷は冷たく、堅く、すぐには溶け合わない性質ですから、それを人に例えて、溶け合わないということは、独断的・排他的な人のことを「衆生」と言っているのです。それに対して水は、氷に比べると、温かく柔軟でほかのものともすぐに溶け合う性質ですから、人に例えると、受動的・容認的な人のことを「仏」と言っているのです。つまり、人の意見を充分に受け入れて理解する暖かさ・ゆとりを持った人を「仏様」と言うのです。「あの人は仏様のような人だ。」とよく言いますね。それは、心にゆとりを持っていて、人の意見も受け入れられるからそういうのです。それに対して、「あの人は、ものいいに角が立っている、剣がある。」ともよく言いますね。つまり、人の意見を聴き入れず、独断的で自分本位な考え方しかできない人をいい、氷に例えているのです。皆様のご家庭で、このような人はいませんか。ご家庭で、家族の一人ひとりが、それぞれ他の人を理解する心のゆとり、心の暖かさを持ち、角の立たない丸い心でありなさいよと、ご開山様はおっしゃっておられるのです。ありがたいお言葉です。
次に、お盆には、各家庭で仏様にきれいな蓮の花がお供えされます。この美しい蓮の花は、いったいどんな所に育っているのでしょうか?ピンク色のあの美しい色をしている蓮の花は、実はきれいな清水の湧く池ではなく、濁った泥水の沼地に咲いているのです。泥んこ水の中で育っていながら、あのような美しい色の、ふっくらした蓮華を咲かせているのです。蓮の花自身は、汚い水に育ったから汚い色に咲いてやろう、きれいな水に育ったから美しい色に咲いてやろうというような気持ちはまったくないのです。それにくらべ、我々人間は、最近のニュース等では、家庭が、会社・社会が、政治が悪いから・・・と、自分の負うべき責任を、他に転嫁(てんか)する傾向が顕著に見受けられます。たとえ恵まれない家庭でも、荒れた学校でも、景気のよくない職場であっても、自分の心を汚さず、人と人との暖かい気持ち・熱意の回復によって、また人心の改革によって、明るい心の維持や持ち直しができるものですよ、いくら激動の世の中であっても、人の心の持ちよう一つで、明るい社会は実現できますよ、と教えているのが、実は蓮の花であり、仏教の華(仏華)として象徴されているのです。
泥に住めども 心は清し 咲いてきれいな 蓮の花
という句がありますが、我々人間さまも、今一度、蓮の花の気持ちを見直し、見習ってみたいものですね。『落穂集』には、
澄めば澄む 澄まねば澄まぬ わが心 澄ませば 清き月も宿らん
という歌がありました。
現在の世情は、まことに複雑怪奇・混沌としておりますが、蓮の花を眺めつつ、自分自身の心の中に蓮の花を咲かせる努力をしたいものです。国(文部科学省)としても「心の教育」を唱え出しているところですが、今一番大切なことは、「家庭の中の和・家族のきづな造り」、「家庭の輪造り」ではないでしょうか。