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私の都合

(出典:書き下ろし)

 毎年の事ですが、今年も庭の梅の木に毛虫が大量発生しました。見る見る内に梅の葉が食べられていきます。このままでは大切な梅の木が枯れてしまいます。

 仕方がありません。さすがに、お盆の間は気が引けるので、月末になってから消毒をしました。殺虫剤を掛けると、バラ
バラと毛虫が落ちてきます。20本程の木から落ちた毛虫は大変な数です。
 ふと見ると何匹かの蜘蛛(くも)も落ちてきています。
 実は、少年時代「芥川龍之介」の「蜘蛛の糸」と言う小説(極悪人のカンダカが死んで、地獄へ落ちて苦しんでいます。生前に一度だけ蜘蛛を助けたと言う善行の功徳で、お釈迦様から「蜘蛛の糸」を垂らしてもらい、助かるチャンスを与えられるというストーリーです)を読んで以来、蜘蛛には特別な思い入れがあります。事ある毎に助けて、私の顔を覚えていてくれよ!と密かに願うのです。ですから、落ちた蜘蛛に「ゴメンゴメンお前たちまで巻き添えにして」と、謝ります。
 でも、よく考えたら「毛虫」と「蜘蛛」の生命(いのち)に何の変わりがあるでしょうか。
 毛虫=大切な梅の葉を食べる害虫、蜘蛛=そんな害虫を食べてくれる(そして、いざという時は地獄から救い出してくれるかもしれない)益虫とは、私たちの都合で名付けただけで、毛虫や蜘蛛の
あずかり知らないことです。
 同じように、私たち人間同士でも自分の都合で、敵・味方、善人・悪人、有能・無能などなど決め付けてはいないでしょうか。又、能力主義・実力社会と言う、一見もっともな言葉で自分にとって不都合な人や、弱い立場の人々を切り捨てていないでしょうか。
 私たちはいつも、自分の都合の良いように、自分の思うように社会があって欲しいし、そのように世界が動くことを願います。そして、その願いを叶えることが、私たちの進歩を促し快適な暮らしを支えているとも言えるでしょう。しかし、自分の願うまま、思うままの快適な暮らしは、何か他を犠牲にして成り立っているのです。 ちょうど、庭の梅の木がきれいなのは、多くの毛虫の犠牲の上にあるように。
 私たちが生きていくと言うことは、多くの生命(いのち)を頂いて、多くの生命に生かされて生きると言うことなのです。
そんな私たちは、自分の都合だけを主張するのではなく、感謝の気持ちを持って、お互いの立場を尊重し合いたいものです。
 ちなみに、「カンダカ」は垂らして貰った蜘蛛の糸を登って極楽に行こうとしますが、ふと見ると、後から大勢の人たちも登ってきます。「この
糸は俺のものだ」と叫んだとたん、糸は切れてしまったそうです。

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