元を識らず
(出典:書き下ろし)
六月は婚姻の守護神であるジュノーにちなんで、この月に結婚する花嫁は幸せになれる、ということでジューンブライドということが云われるが、実際の事情は少し違っていたようです。
西洋では上流階級を除いて、人々は敷きワラをしいて家族が一緒に寝ていたが、六月になればそろそろ暖かくなって戸外に出て寝ることが出来るようになるからです。実はそれというのも、新婚さんが家族の目から離れるという以外にワラから発生するノミやシラミといった害虫から逃れる目的があったらしいのです。ついでに、クレオパトラもしていたというアイシャドーは、砂漠などの強い日光から目を守るという実用の面もさることながら、「寝る間もないほど愛された」という、東洋では下品とされることが、まかり通っていた名残であります。
さて何気なく使っている箸は、東洋の伝統的な食文化の財産の一つでありますが、その歴史は、中国の三国時代にまで溯ることができます。日本では耶馬台国、卑弥呼が魏に使いを送り込んだころです。最近の人たちは器用に、レストランなどでナイフとフォークを使っていますが、その歴史は百年ほどです。長い歴史のなかで洗練されてきた箸づかいは美しいと思います。岐阜市の瑞龍僧堂で修行していたころの話です。時々、信者のNお婆さんの家へお経を読みに行かされていました。Nお婆さんは雲水(修行僧)のことをとても可愛がり、何かと面倒を見ていてくれていました。或る時、お経を読みに行ったら無理矢理に、フランス料理に連れていただきました。私はフランス料理など見たこともなければ食べたこともなかったので、内心「困ったな」と思いました。ナイフとフォークも使えない。それに雲水が場違いの処に居ては他の信心を冷まさないかと怖れていました。店に入るなりNお婆さんは、「いつものコースをお願いね。あっ、それからこちらのお坊さんはよく食べる方だから量を多めにしてちょうだい。それからナイフもフォークもいりませんからお箸で食べやすいように調理してください。」と、当然のように注文し、すましていました。「よく食べる」は余計だと思ったが、ほっとしました。そして修行しているような気持で食事を頂き、僧堂でいつもやっているように、皿などに残っているスープの汚れなどを、きれいにコップの水で洗い、それを飲み干しました。後で料理長の方が出てきて、えらく感激して、「ここまで召し上がって頂き、有難うございました。」と言われました。負け惜しみかも知れませんが、私が形にとらわれてナイフとフォークを使っていたらこんな風には食べられなかったと思います。
鸚鵡煎茶と叫ぶ 茶を与うれども元を識らず
という禅語があります。形だけを追い求めても、元の心を知らなければ、ただの猿まねです。猿まねが横行する世の中で真実を求めていく人間は馬鹿に見えるかも知れませんが、小利口に生きるより充実した人生を生きられるような気がします。