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私の信心

(出典:『琉璃燈』平成8年12月号)

一、仏教を信じ、仏教を実践することは、信心によって安心出来た、救われたという体験があるからです。安心の生活をしていく為のよりどころを、仏教の中に見出し、信心していくことが学習する場合大切なことです。仏教の話を聞いても、もの知りになるというだけでは、心もとない人生になってしまいます。

二、仏との出会い
(1)
 釈尊は「ダンマが熱心に禅定には入っている修行者に、あらわになった時、その時一切の疑惑は消滅した」と自説教で説いておられます。
 だんまを別の言葉でいえば、如・真如・真実・仏の御いのちです。
 「仏の御いのち」が因となり、時々刻々の変化の縁によって、どんどん生まれ、その森羅万象は、生住異滅の四相の仏の仕事をしている。
 夜安心して、寝ておられるのも、「仏の御いのち」に生かされているからです。朝起きて空気を吸いご飯を食べるのも、私でないものの力によって、守られているからです。手足が動く、身の諸器官が動く、私の生命は、私の思いの外の事実として働き続けているのです。
 私の生きている姿が、「仏の御いのち」の御用をつとめさしていただいていると判れば、ずっと楽になります。仏に守られているという感じが得られた時安心です。

(2)
 「仏の御いのち」の精髄は、天地自然の姿です。天地自然の理性の中に現われている。水が低きに流れ、焔の空に登る如く、人間のはからいから離れた、自ら然らしむるものが自然です。様々な姿をしているがその本質は「仏の御いのち」の現われである。天地自然は、「我がものという心」「執着の心」「浄穢・好悪の分別差別の私心」から離れている。
 青黄赤白黒の花は、違ったままで、すばらしいものです。人間の選り好みの寸法で好悪をいっても、はじまりません。立派な人生、立派な死に方、立派も、立派でないも、ありはしないのです。
 余分な気苦労もせず、「仏の御いのちの御用」にまかせておけば安心です。

三、法との出会い
 世の中の総ての事象は、縁によって起こっているのです。縁によって起こるというのは、総ての存在は、我ならざるものによって作られている面があるということです。縁なしには、この世に存在するものは、何もないのですから、固定的な変わらないものは存在しない。必ず、移り変わりつつあるということです。(縁起・空・無常・無我)そうであっても、老いる・病気・死・家のこと等の問題が起こってきて、人生の苦しみは強まります。
 変わらない私、変わらないもの、というものに執着していると、苦しみから離れることはむつかしくなるばかりです。
 自分が生かされている世界は、世界の果てまで、仏の御いのちの源まで、つながっている、そういう大きな力の中で生かされて生きているという自分を、ありのまま受け入れることです。
 食事するとき「オカゲサマ」「アリガタイ」という気持ちで頂く、頂けないときは「スミマセン」という気持ちで頂く、何事をするにしても、心の持ち方を仏法一つにする信心が功徳である。

四、人との出会い
 人に出会うことは、単なる人との出会いではなく、人以上のものに出会うきっかけになるのです。
 社会的に活躍出来るのも、有形無形に生かしてくれる様々な条件なしには、その達成はありえない。「私はある」ということは、私の力だけしか分からずにいることです。他の力から眼を離すことであり、大きな力の存在に背くことです。そうわかった時私のおごりは消え、大きな力に心を開くことができる。

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