『西遊記』の玄奘三蔵法師
(出典:書き下ろし)
『西遊記』は唐の玄奘三蔵法師が、孫悟空・猪八戒・沙悟浄を供に、さまざまの苦難にあいながら天竺(インド)へ行って仏典を持って帰る話です。
子供のころ誰にも親しまれた冒険物語です。
仏教には3,200もの経典があるといわれますが、その中でもっとも有名なお経が「般若心経」です。
色即是空 空即是色・・・ギャーテーギャーテー ハラソーギャーテー
一度くらいは聞かれた方もおられることでしょう。
この般若心経は、紀元1~2世紀の頃インドで生まれました。
ですから、原典は古代インド語のサンスクリット、すなわち梵語です。
この梵語のお経を漢字に翻訳したのが、中国の僧 玄奘三蔵です。
玄奘三蔵(602~664)、色白で美男子で秀才。
13才で出家し、仏教を学びましたがあきたらず、国禁を犯して28才でインド留学へと向かいます。
命がけの求法の旅、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、パミール高原、カラコルム峠を越え、やっとの思いでインドの仏教大学ナーランダに到着。
長安出発のとき40人の同行者は、途中の猛獣・山崩れ・急流などで死者続出し、2年後には玄奘ただ1人という苛酷な旅でした。
偉人といわれる人には色々な伝説が残っていますが、玄奘にもいくつかあります。
旅の始めの頃、ある寺にいた時インドから来た老僧がハンセン病で苦しんでいた。
玄奘の弟子たちは皆逃げだし、老僧1人で病床に伏せていた。
そこで玄奘は手厚く看病し、薬をすすめ食事一切の世話をする。
このインド僧は感謝して1巻の経典を授ける。
玄奘はこの経典を道中のお守りとした。
玄奘帰国後この経典を漢訳したのが現在の「般若心経」です。
時を経て、その経典が敦煌の石室から発見され、その序文に次のような伝説が記されていました。
インド僧に会ったのちに、玄奘が中インドのナーランダ寺に着いたら、なんとその病僧がそこにいるではないか。
驚く玄奘にその僧は、~われ観世音菩薩なり~、と告げて空に消え去った。
今でも般若心経が、旅行のお守りのお経ともいわれる所以です。
三蔵とは、仏教の聖典である経蔵(釈尊の教えである経を集めたもの)、律蔵(仏教徒が守るべき戒律を集めたもの)、論蔵(経を注釈したもの)。
この三蔵に精通しているすぐれた僧を三蔵法師と言います。
ですから三蔵法師は他にもいるのですが、一般に三蔵法師といえば玄奘三蔵を指すように、玄奘は中国仏教の歴史の中でもっとも代表的な翻訳僧です。
あしかけ17年の旅を終え、多くの経典を持ちかえった玄奘は、皇帝の庇護のもと多数の仏典を翻訳しました。
63才で亡くなられた時、天地は色を変じ、鳥獣は哀しげに鳴いたといい、遺体は77日経っても少しも変わらず、異臭もしなかったということです。
葬儀には、送る人100余万人、その夜墓前に泊まる人3万余人ともいわれています。
玄奘三蔵法師は、人格高潔、学力(語学力)抜群、頑健な身体と熱き情熱、不撓不屈の精神の持主であり、弥勒・観世音菩薩と般若心経への厚き信仰に生きた偉大な僧でありました