更衣
(出典:『花園』平成8年6月号)
六月一日は「ころもがえ」である。修行時代のこの日のサワヤカサといったら何ものにも代え難く思い出される。去年の十一月から木綿衣を着続けて来て、五月にも入れば汗だくになりつつも、暦のこの日まで辛抱しての、重い冬衣から軽くて涼しい夏の麻衣に着替えた時の心身の爽快感は筆舌につくしがたい。
『碧巌録』(註①)第四十三則「洞山無寒暑」に、洞山和尚と修行の僧との禅話がある。
僧 「寒さ暑さをどのようにして回避したらいいですか」
洞山「無寒暑の処へ往くことだ」
僧 「寒さ暑さの無い処とはどこですか」
洞山「寒時はしゃ闍梨を寒殺し、熱時は闍梨を熱殺す」と。
ここには「寒い時には寒いと思う僧自身を寒さで殺し、熱い時には熱いと思う僧自身を熱さで殺せ」と物騒な応答がなされている。即ち、寒さ暑さと別物でなく、ひとつになりきれというのである。勿論、そう簡単になりきれるはずはなく、夏の麻衣に涼しさを感じたのも束の間、どうしても暑いものは暑い。やはり、暑さ寒さは衣の厚い薄いではないらしい。
しかし、梅雨うっとうしい夏安居の修行にも時には清涼の風も吹く。八つ時茶礼に出される「水無月」は、この季節のみの京銘菓である。冬から保存してあった氷を氷室から出し、そのおが屑のついたままの氷を模したものという。雲水には殊の外贅沢なひと時、この時ばかりは暑さを忘れ、京の殿上のお方のような涼しげな風情に浸ったものである。美味三昧、工夫されたお菓子ひとつで暑さを忘れることもある。
いたずらに逃げ道を探すのでなく、その場、その時になりきる。その季節のまっただ中に飛び込む。飛び込んでしまえば、水無月(六月)もまた良し。寒暑、生死、苦楽、すべての対立のポイントがみつけられそうである。
単衣きてただの一個のわれなりし 芒角星
註①碧巌録~中国は宋代の圓悟禅師が、雪竇禅師の百則の頌古に評唱などを加えた公案集。