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魚龍と化す

(出典:『花園』平成1年5月号)

江国の春風、吹き起たず
鷓鴣啼いて、深花裏に在り
三級浪高うして魚龍と化す
癡人なおくむ夜塘の水

 このよく知られた詩は禅門第一の書といわれる碧巌録の中に出てくる雪竇禅師(980~1052)の頌である。揚子江に臨んだここ江南の地一帯は今まさに春たけなわである。花々は一斉に芽を吹き、心地よい春風が音もたてずに吹き渡っている。シャコ(雉に似た鳥といわれる)はしきりに花畠の中で春を謳歌している。のどかな景色である。
 第一句の江国の春風は人生の達人というか、立派なお悟りを開いた方の境涯というものであろうか。第二句は鳥の声はすれども花にかくれて姿はみえず、まさに私どものように毎日笑ったり泣いたり怒ったり、五欲煩悩が百花燎乱と渦巻く中に、シャコのように仏性がはたらいていることに気がつきません。第三句の三級浪高うしてというのは、河南の龍門山という所につくられた三段のダムで、毎年三月三日の桃の咲くころ、不思議に下流の鯉がその滝をのりこえてついに天に昇って龍になるといわれている。それなのに癡かな者たちはそれを知らずにいつまでも滝ツボの中に鯉をさがし求めている。
 この故事が日本に伝えられ何時の頃からか五月五日の節句に鯉幟がたてられるようになったという。すぐれた識見、力量底の人を龍象といい、古来龍は龍神、龍王といわれる仏法守護の神として讃えられ、又人間完成の象徴として崇められる。こどもの健全な成長を祈る人々の願いが鯉幟となって今に到るまで薫風に泳いでいる。
 悉有仏性の仏教の教の中でも童心は仏心に通ず、無邪気、無心のこどもの世界にこそ学ぶべきものが多い。
 私たちは本来、みな三段の滝を登り得た龍にもひとしい本来仏であるのに、仏はどこにとうろちょろ探しまわっている。おろかしいことといわねばならない。

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