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花祭り

(出典:『花園』平成3年4月号)

 今年は花が遅いな、と思う年があったり、暖かでれんげの花などが早く開いてしまったりして「花御堂を葺くのに困ったな」と思うようなことが時にはあるのだが、その時になると檀家の人たちの中で「花祭りのお支度でお花が沢山お入りようでしょう」と、お花を届けて下さる方が毎年あって、結果的には心配は無用なこととなって、花御堂をふんだんにお花を使って葺きおえても勿体ないほどに、お花が残ることが多い。
 そんな時、私はいつも亡くなった母が「お釈迦さまは本当に尊い方だったんだね。お花の咲きそろった場所で、お花が一ぱい咲く頃にお誕生なさったに違いない。お花がなくて困るかなと心配しても、一度だってそんなことなかった。ホラ、こんなに椅麗なお御堂が葺けただろう」と幼児のような笑顔で喜んだのを思いだす。寺に生れ寺に嫁して七十五年、難しい佛教の学問や深い教理を知っていたわけでもない。ただ只管に、花のように美しく清らかな佛さまの尊さを一途に讃嘆し随順する日暮しを送った。
 近頃は改良品種や、温室、ビニールハウスなどで栽培された絢爛たるお花が花屋の店先にはいくらでもあるし、名も知らぬ洋花が私たちの眼を楽しませてくれる。でも、そういうお花は花御堂を飾るのに必ずしもふさわしくないような気がする。
 田舎にある私の寺の周辺でも、紫の絨緞をしいたようなれんげ畑も、体が黄色に染まりそうな菜の花畑もいつの間にか、私たちの視界から消えてしまった。徒らな懐旧趣味や、単なるノスタルジヤで言っているのではない。本當の意味で、自然環境の維持保全を訴えるならば、掛け声だけではダメなので、花御堂をお花で葺いて無邪気に、幼児のように喜ぶような情感が必要なのだということを言いたいのです。そう言えば、仏さまのみ教えは「法花経」といい「華嚴経」と名付けられるように、華によって象徴され、花に譬えて、その教えが説かれ説かれているように思えるのです。

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