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涅槃会に想う

(出典:『花園』平成8年2月号)

 二月十五日は、釈尊が亡くなられた日である。この日、寺院では釈尊の遺徳を偲んで、涅槃会の法要が行われる。涅槃は、死去の意と、煩悩の火を吹き消し、滅し去った、さとりの意がある。……涅槃会の縁を人生のうえにどう会得し活用するかを考えてみたいと思う。
 人は誰も自分が可愛いくて、我執が強く利己的な生き方をするところがある。「どのように生きたらいいのか」「どうしたら得になるか」「こうしたら損になるのではないか」と利害打算の心に迷い惑うて、いつも安らぎがない。……幸せになるために、よりよく生きようとするはからいが、かえって自心をぐらつかせる。
 よりよく生きようとするはからいが、結果を期待し、問題にするあまり、今を生きる誠実な生き方に本当の力がでてこないのである。結果は行きづまって苦悩する。ここで気がつき「道理を求め学び、道に依って生きていこう」とする。しかし、道理にとらわれ、こだわって、本当に道に生きる味わいがわからなくて、またして、イライラの落着きのない日々となる。煩悶の果てに、いのちの本性(真の人間性)こそ、真実の道なりと気づき「道に依って生きるのではなく、道と一つになって死ぬのだ。道の実践に道と共に亡び去るのだ」と覚悟が定まる。と妙なもので、道に生きる味わいが生まれ、道が自己を再生させるのである。心が和み、天地自然と一緒に生きる大らかさ、明朗さが力となって湧き出てくる。
 道と一つになって死ぬことは、生も死も超えた精進となり、小さな我でなく大いなる我の生を味わう。苦しみも悲しみも寂しさも、一切好し。「日々是好日」を実感し会得するのである。
 何によって生きるかは、即、道と一つになって死に去り、人間解決することなりと定めれば、日々の出会が自らの開発・創造の日々となり、生を味わい、生死不二の妙道に生きる安らぎと和やかさに心嬉しくなってくる。これが涅槃寂静の道ではなかろうか……。

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