仏のいのちにめざめる
(出典:『花園』昭和62年12月号)
成道会(十二月八日)
我が宗門では、「二祖三仏忌」として必ず毎年営まれる法要がある。
二祖とは、達磨大師、各寺の御開山様であり、三仏忌とは、釈尊の三大仏日即ち「降誕会、成道会、涅槃会」である。この三仏忌は、宗門人のみならず、仏の教えをいただく者すべてが、心に銘じて勤めなければならない大切な報恩行事である。
ことに成道会は、釈尊が六年もの間、難行苦行された末に、一つの光り輝く暁の明星をごらんになって、おさとりを開かれたことを記念して厳修する法要であり、言い換えれば、仏教誕生の日というこどができよう。
我々は日常生活の中で、さまざまな悩みや思い煩い、憎しみや怒りなどにふりまわされて、とかく自己を見失いがちである。仏教はそうした現実の生活の中にありながら、自分自身がかけがえのない尊い仏のいのちを与えられていることに目覚めて、その命を大切にし、そのかがやきを増していく智慧を身につけることを教えている。
したがって仏教は、仏のいのちの中に生かされていることを白覚する宗教であり、この仏のいのちに目覚めることを「安心」という。
しかし、我々はこのいのちの尊さということが普段は容易に身につかず、仏のいのちに生かされている自分を粗末にし、勝手気ままに毎日をむなしく過ごしている。
いうまでもなく、釈尊御出家の動機は、生老病死の人生苦よりの解脱であるが、仏教では「苦」を特別なものとして受取るのではなく、始めから人生は「苦」であって、この世に存在する限り、「苦」であるという事実をみつめることから出発して、その「苦」を克服する生き方を教えているのである。
精進こそ不死の道
放逸こそ死の径なり
いそしみ励む者は死することなく
放逸にふけるものは
いのちあるともすでに死せるなり (法句経二十一)