自ら其意を浄くする
(出典:『花園』平成7年10月号)
十月に入ると、秋空・夜の月・灯火に親しむ夜長など、心を養う好時節になる。
通戒偈に「自浄其意」の戒語がある。噛みしめるほどに、古人が、人をして仏道に入らしめんがために心を砕かれたかが偲ばれる。
この教えにまつわる、道林和尚と白楽天の対話の故事がある。
白楽天が、ざん言によって官職から追放されて、故郷への帰途、道林和尚を尋ねると、和尚は大木の枝の上で坐禅をしていた。
「和尚さん、そんなところで危ないですよ」
「お前さんこそ危ないぞよ……」
「和尚さん、仏法の教えをお示しください」
「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」
(もろもろの悪をなすなかれ・もろもろの善を行い・みずからその心を浄くする・これ諸仏の教えなり)
「そんなことは三歳の童子でも知っています、もっと高い深い教えを示してください」
「三歳の童子でも知っているが、八十の老翁も行うことがなかなかできぬのじゃ……」
この、道林和尚の厳しい自己凝視に平伏した白楽天は、この縁で求道者になったという。
古来、仏教者の「自浄其意」の道は厳しい。本性の実現に生きられない身に「罪悪深重」と嘆じたり、「身をも心をも仏の家(いのちの根源)に投げ入れて」と自我の放棄をいっている。
凡夫の我われは、自我の欲心深く、名利をことさらに求め、はからいとよりごのみの念々に迷い惑いながら、偽善的な生き方をしている……。「仏教は凡人の行うことのできない理想論だ」という人があるが、その我見こそ浄くすることの必要があるのではないか。
仏法の道理を学び習うことによって、行うこと難い自分の内容を覚る。そこに、未熟な自心を自覚・内省していくとき、謙虚な人柄になっていくのである。仏道は自己を習うなりで、理を以って「白ら其意を浄くする」道こそ、自らを育成する悦びであり救いなのである。
夜空の清い月と対座し、また灯火に親しみ、心を養う日々にしたいものである。