法話

フリーワード検索

アーカイブ

心の時代

(出典:『花園』昭和63年8月号)

-施餓鬼会-
倉廩実ちて 則ち礼節を知り
衣食足って 則ち栄辱を知る    (管子) 牧民

 倉のなかに品物が豊富になってくると、人ははじめて礼節を知ることができ、日常生活に必要な衣食が十分足りてくると、真の名誉と恥辱の如何にあるべきかを知るというのであります。ところが現代のように物が溢れ、日常生活も豊かにはなって来たが、どうしたことか、礼節という心の豊かさが取り残され、忘れ去られている現状からいま、「心の時代」が叫ばれ現代を考え直すときが来ているように思います。現代ほど複雑極まりない社会は過去において経験されなかった「飽食文化」であり、そのなかで、一見豊かそうに見える私たちの暮らしが、実はどこかで冷たい空虚な心をも育てはじめているような気がいたします。それは、物質と精神(心)とが反比例していく心の貧しさを指しているのであります。人間の欲望は限りのないものであり、実のところ人間には、どうしようもない部分があって、貪るという心、瞋るという心、愚痴るという心が、その人を支配してしまうことがあります。だから人間とは、どうしようもないものだと決めつけてしまう人があります。「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人びとは、解脱しがたい」と釈尊は説き示されています。自己の生活が本当に満たされていることを知らないで、欲することだけを追い求めるとすれば、それは「飢え」と同じ心の状態をつくります。それでは、他人のことや、自らを反省するゆとりがありません。やはり自己中心的人間におちざるを得ません。
 仏教でいう「餓鬼道」とは、こうした心の貧しさを指しているのであります。お施餓鬼の行事は、こうしたこころの貧しさを反省し、正しい生活、豊かな生活への軌道修正を教え示しています。お盆の行事のなかで、ご先祖さまの精霊を迎え、手あつく供養するという心は―いま―私たちがこの世に生命をいただいて生かされていることの真実をみつめ、「内なる飢え」を癒し餓鬼道から救われていく教えであります。

Back to list