お墓参りの心
(出典:書き下ろし)
私たちはお盆が近づいてきますと何はさておいて先祖のお墓の掃除をいたします。草を取り箒で掃き清め、お墓に水を掛け草花を供え、お線香を立て心をこめて手を合わせ、お墓参りをいたします。
お彼岸の時もそうです。春分と秋分の日は国民の祝日ですから、全国各地の津々浦々のお墓に家族がそろってお墓参りをします。お墓参りは何もこの時ばかりではありません。私たちが社会人となって功成り名を遂げた時、真っ先に報告したいと思うのは自分の肉親です。また事業に失敗しうちひしがれたような時、だれにもいえない悲しみを聞いてくれるのは、自分が生まれる前からいちばん心配をかけた今は亡き肉親や親族の方々たちや特に親しかった方々です。「子を持って知る親の恩」といいます。誰でも子供を持って、はじめて親が達者なうちは随分粗末にしたと反省し、いよいよこれから孝行したいと思ったときには、もう親はいないのです。そこで「孝行したい時に親はなし、石に布団はきせられず」ということになるのです。
仏教では「縁」ということを大事にしています。この教えによれば、この世において雨が降るのも風が吹くのも、花が咲き、やがて散るのもすべて因縁により起こると説いています。たとえばここに一粒のお米があります。これは「因」になるものです。私たちはこれを種として土に播きます。すると芽が出てきます。さらにこれを苗として水田に植えますと青々とした稲となります。やがて秋には稲穂が出て多くのお米が収穫されます。仏教ではこれを「果」といっています。
仏教の「縁起」の教えによりますとこの「果」はすべて「因縁」によって起こると説いています。まず「因」となる一粒のお米があって、数多くの「縁」によりはじめて「果」であるたくさんのお米が私たちの食膳に供えられるのです。この数多くの「縁」とは一体なんでしょうか。お米と言う字が八十八人もの人々をかけて出来るという意味を持っているように、多くの人の手がかかっています。それだけではありません。青々とした稲穂が育ちお米を収穫するには、太陽の光線、多くの水、肥料などが必要です。肥料を与える事を「施肥」というようにすべて施しがあって「結果」が成り立つのです。
この「縁」のなかでも何にも増して深く有り難いのが親子の縁であり、ご先祖さまのお蔭です。お墓参りこそ報恩感謝の表われです。