法話

フリーワード検索

アーカイブ

「忍」ということ

(出典:『花園』平成4年3月号)

 去年の四月から『花園』誌の「法眼」に、しんどい思いをしながら、愚見を書かせて頂いたが、過ぎてみれば、またたく間、あっという間の一年で、この間、勝手な言い分に、お目通し頂いた皆さんに心からお礼を申し上げたい。もう三月、春の彼岸の月になった。
 誰方もご存じのように「彼岸」は理想社会の意味で、そこに到達し、理想を完成することを、インドの古いことばでは「パーラミータ」「波羅蜜多」―中国では「到彼岸」と訳された。その理想世界に到達し、完成する為の実践の道を、仏教では「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の六つの徳目として示し、それを「六波羅蜜」という。一つ一つの徳目に、いく分かの解説を施したいが、紙数の制約で、今は一切省略する。
 この頃、私は殊に「忍辱」のお示しの大切さを思う。私たちの宗門でよく読誦される「金剛経」の中にも「忍辱の菩薩は、よく他の菩薩に勝る」と説かれている箇所があるが、「忍」・しんぼうするとか、耐えるということが、どうやら現代人にとって一番の苦手のように見えるが、今こそ、それが人類にとっての最も大切なポイントなのではないかと思う。それも「耐え難いしんぼうをせよ」と言うのではない。「勝手千万な、我儘を、自由だという大切な宝物と思い誤るな」ということなので、それぐらいのことは分ってもらわねばいけないと思うのだ。したい放題の事を周りのものの迷惑もわきまえず、衝動的に振舞う愚しさだけは控えてもらいたいと思うのだ。
 思えば人の世での混乱や暴力の大部分が、如何に恣意の衝動から惹き起こされているか、思い半ばにすぎるものがあろう。「忍」とは「しんぼうせよ」「我慢せよ」と他から強制さるべきものではない。自らの心に限りなく湧き出でる衝動を自ら柔軟に制御することであって、それは諸々の善きこと、諸々の幸せの根源のように思える。
 それを最も具体的に、美しく表現する人間のみのなし得る姿が「合掌」で、いみじくも詩人の坂村真民さんは「両手を合せたら喧嘩もできまい」と謳われるのである。「忍」それは人間本来の尊さへの讃歌である。

Back to list