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ある夫婦

(出典:『法光』平成13年9月号)

 私の寺の写経会にある御夫婦がいます。御主人は七十歳位、奥さんは六十代半ばです。毎回遠くから仲良く通って来られますが、御主人は実はアルツハイマー症です。初めはそれと気づきませんでしたが、時が経つにつれてその症状が顕著になってきました。それでも彼女は変ることなく御主人と一緒に参ります。子供も成人して、やっと自由になった老後の生活、彼女にとってそれはアルツハイマー症の夫を介護することだったのです。でも、彼女には陰りも苦痛のかけらも見られません。ただ子供をあやすように笑顔で接しているだけです。
 写経といっても、御主人は時間のうちにやっと数文字しか書けません。けれども彼女は無心に筆を運び、願文には必ずたった一つの願い、「夫病気平癒」と記すのです。毎回いつでも願いは同じです。そして終わるとにこやかに挨拶を述べて下山されます。御主人もそういう彼女の姿を見て安心感を抱くのでしょう。本当に穏やかな表情です。
 長年連れ添い、苦労を共にした夫の病を受け容れ、看病が生きがいであるかのような真心が、私の心にも強く響いてきました。ある時彼女から、「主人は私にとって観音さまなんですよ」という言葉を聞いたことがあります。私はその時、彼女こそが観音さまなのだ、そして病気はたとえ治らなくても、一心に願いをこめる彼女の心の中では、御主人の病気は最早なくなっているのではないか、と思ったのでした。

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