彼岸に想う
(出典:『花園』平成8年3月号)
三月には彼岸会がある。いのちの智慧をもって、真の人間性の実現に心尽す月である。
幼な子が歩き始めると、見る物に関心をもつのか「アレナーニ」と尋ねる。教えられたことに納得できないと、「ナゼ」と問い、さらには「ドウシテ」と追求して止まぬ。……生まれながらにもっている、いのちの智慧は、真実を求めて生きる本質をもっている。これが将来、外に向かえば科学する心に、内に向かえば宗教や哲学をする心になっていく。
かつて、テレビで人工衛星から地球を映し出しているのを見たとき、私は思わず膝をハタと打って歓喜し感動した。……人間の「自らをみつめ考える」智慧を科学は拡大させたと直観したのである。世界の人々が、人間性にめざめて生きる科学と宗教が不二一如の時代に入った。真理を追求し、自我の文化文明から転換して、大我の人間の文化に、科学的宗教・宗教的科学を確立する縁になるだろう。釈尊が説かれた無常の真理は、科学が進歩するほどに実証されていくだろうと思う。
地球は、自転しながら公転の道を、公転しながら自転して自公不二の道を生きている。人間の道も、地球に学び自己を生きるそのことが、他に生きること、他に生きるそのことが自己を生きる不二の道でなければと想う。
家庭生活に集約していえば、自分が人間の真実を生きるには、関わり合いの間がらである、夫・妻、父・母、祖父・祖母などの相の無い立場を自覚した生き方をしなくてはならない。それには、我有りとする自我の意を転じて、無我に帰り、人間(間がら)を自在に生きてゆくことである。だが、言うは易いが、行うは難い。ここに自我から無我の大我に転じていく、つまり此岸から彼岸に到る、自己を習う仏道を習う修練が必要なのである。
彼岸会を縁に、真の人間性の実現に生きることを決意されて、願わくば、人間の無我なる大我の自由人を生きてゆかれんことを……。
読者の方々に一年間のお付合いに感謝して。