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ないことの功徳

(出典:『花園』平成4年12月号)

 十二月十二日は、妙心寺の開山忌である。開山・関山慧玄禅師は、法に簡素、弟子の接化に簡素、生活に簡素を極めた禅者であった。師である大灯国師に比べて、語録もないし、特に目立った業績もない。だが関山禅師が可能な限り余分なものを徹底して排除したのは、修行者が専一に本来の自己を探究できるようにするためであった。
 『菜根譚』に、「蓋し、志は澹泊を以てして明らかに、しかして節は肥甘より喪うなり」とある。志は簡素な生活によって、磨かれるけれど、ぜいたくな生活をすると次第に失われていく。現代、子供も青年も志を失ったのは物の豊かさに起因している。修行道場の生活は新聞もない、テレビもない、ゆっくり寝る時間もない、食べるものもろくなものはない、自由時間もほとんどない、ともかく、ないないづくしの生活であった。一方、坐禅と作務の時間はたっぷりあった。
 修行だけでなく、自分の人生の目標を定めたら、他のことは捨てて、ひたすら打ち込むことだ。あれもやりたい、これもやりたい、ではどれも中途半端になってしまう。相田みつをが、「そのうちお金がたまったら/そのうち家でも建てたら/そのうち子どもから手が放れたら/そのうち仕事が落着いたら/そのうち時間のゆとりができたら(中略)できない理由を/くりかえしているうちに……」と歌っているが、弁解する自分も捨てないと何も始められない。こういう人を”そのうち人間”という。死んでも、そのうちと言うつもりなのであろうか。
 今日、人並みに「あること」が幸福で、「ないこと」が不幸と思い込んでいる人が大半だ。果たしてそうであろうか。かえってなにかあるために、それに頼ってしまい、全身全霊でなにかに打ち込む、自らチャンスをつかむ、そういう気力が失われていくものだ。ないことにも失望せず、しめたと感じるくらいの、しなやかな心を自育したいものだ。

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