花園法皇さまの学び
(出典:『花園』平成5年11月号)
菊の香や 奈良には 古き仏達
この芭蕉の句は、悠久の時の流れと、おくゆかしい日本文化というものを感じさせてくれます。
昨今は、カルチャーブームというのでしょうか、全国どこでも様々な趣味や芸能、文学、スポーツなどの同好会や講座が開かれています。文化的で結構なことのようですが、はたして本来的な求め方なのかな、と考えさせられます。同じように、書店では宗教書、仏書のコーナーが繁昌しているようですが、これまたそれほどには、人々が宗教的になってきたようにも見えません。
こうしたことを思うのも、妙心寺の開基、花園法皇さまのご一代に貫かれている、驚くばかりの求道心を拝するからです。
花園法皇さまの学ばれ方は、その幅の広さといい、真摯で且つ猛烈なまでのご精励ぶりといい、そしてその方向の確かなことは、『御宸記』の中にありありと窺うことができます。その学びに対する思いは『学道之記』に自らまとめておられます。「学問というものは、単に文字を識り博学になるためにするのでなく、よく本性に達し、道義を修め、それが日常に行われなくてはならない」と述べられ、それに反する方向を誡めておられます。そして自ら日常万端にその通り実践しておられます。和歌についても「正しき心、すなおなる詞は古の道なり、真にこれをとるべし云々」と。また仏事についても「仏事を修するとは、形の上、外に向って何かを行うことではない、内にこそ求められなければならない」と。このように、花園法皇さまの学びは、日常生活に即し、その方向は常に、真理の淵源に向って深められ、ついには大灯国師の下で大悟を迎えられます。
11日の法皇忌を迎え、法皇さまの学びのお姿を拝し、混迷の続く今日の私達の生き様を省みるとともに、日本文化の色褪せを恥じなければならないと思うのです。