達磨忌
(出典:『花園』平成1年10月号)
十月五日は達磨忌です。釈尊から数えて二十八代目の祖師が達磨さんです。勿論大師以前にも所謂”禅那”の法はありましたが、明確に他の諸宗と分けられて禅宗として一宗が成立いたしましたのは大師以来で禅宗の初祖として仰ぎます。
その昔、釈尊が靈鷲山で多勢のお弟子を前にして一枝の花を拈じられました。そのお心(意味)がわからず皆ただ黙っておりましたがただ一人、迦葉尊者(やがて釈尊の法を嗣がれて第二世となられた)のみが「にっこり微笑まれた」のです。よろこばれた釈尊は、正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝の仏教の真理をお授けになったのです。その仏教の極意を提げて中国の地にも伝えようと小舟にのってはるばるやってこられ、かの地に広く禅風を挙揚されたのが大師でありました。
禅の高僧のお書きになる「達磨画」をご覧になることがあると思いますが、その賛によく「不立文字、教外別伝」とか「直指人心、見性成仏」とかが書かれています。釈尊がお悟りになったお心―仏心とか仏性とか申します―をもって宗旨としているのが私たちの禅宗です。だから一名、「仏心宗」ともいわれるのです。
仏心の当体は文字やことばでは充分に伝えられません。いわゆる以心伝心でなければ明らかにすることができず、しかも私たちの心と仏心とは別のものでないので、直ちに自己の本性―これはそのまま釈尊や達磨さんの心と同じもの―を徹見して安心せしめるものでありますから見性成仏といわれるのです。そしてその見性の方法は専ら坐禅によるのです。
達磨大師はその「心」のことばを伝えるのに一番よい方法が坐禅だといわれるのです。又大師のお説きになった教えの一ツに「事中徐緩」があります。物事は何でもあわてず落ちついてやれ、結論は急ぐなということであります。かめばかむほど味のある教えです。スピード化し、複雑化した現代に生きる人々の心に深くささることばです。人間何ごとも途中が大切です。常に自分を失わずしっかりと自分を見つめながら生きてゆきたいものです。