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心の時代 2

(出典:『恵日』平成元年7月号)

 今日の若者の流行語の一つに、~ここはどこ、私は誰~という奇妙な言葉があります。この流行語はよく考えてみますと若者の世相を反映した言葉でしょう。つまり、自己の存在理由(仏心と呼んでもいいでしょう)の喪失がまさにこの流行語となって現われている、といえましょう。
 例えば、自殺を例にとっていうなら、日本における自殺者は一日平均五十五人だそうです。そして、それが、マスコミなどでとりあげられる自殺があるとすると、その記事の波及効果で、平均十八パーセントほど増えて、百人前後にもなるのです。もちろん、自殺者は何も若者に限ったことではありませんが、マスコミ報道後の影響は若者に断然多く波及していることは言をまちません。まったく恐ろしいようなことです。
 このようなことは、まさに、自己の存在性、主体性のなさといったものを哀しく物語っている、といわねばなりません。
 臨済禅師(りんざいぜんじ)の、随処(ずいしょ)に主と作れば、立処(りっしょ)皆真なりの言葉は、時を越えて今こそ私たちの心に強く迫ってまいります。
 そして、東福寺のご開山さま聖一国師(しょういちこくし)が、経陀羅尼というは文字にあらず。衆生の本心なり。本心をさとる人、まことの経を読むなり。といわれた、その自己の本心をしっかり見詰めていくことが、仏さまの教えを正しく生活の中で生かしていく指標になるのです。
 ある空港のロビーでの光景です。初老の外人男性がロビーで大きなカバンの上にどっかりと腰をおろして頭をかかえておりました。係の男の人が、どうしたのですか、お疲れなら、カバンをお持ちしますが、というと、その外人は、いや、そうではありません、という。もう一度、係の男性が、それではどうされたのですか、と尋ねると、その人はゆっくりと体をおこして、こういいました、「私の体は今この遠い国に着いたのですが、私の心がまだここに到着していないのです。ですから、私は今ここで、その心の到着をじっと待っているのです」と。
 お盆とは、遠いご先祖さまから受けついできた、大切な心の到着を静かに待つ日なのです。
 そして、そのご先祖の心と私たちの心とが正しく重なることによって、はじめて一輪の花が咲き、幸福が生まれてくる、といえるのです。

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