いのち
(出典:『花園』平成2年6月号)
近時とみに、「こころ」の問題とともに「いのち」に対する関心が深まり、これをテーマにした催しが所々で展開されている。今(注:平成2年時点)開催中の花の万博会場に於いても「いのちの海」があり「いのちの塔」が高さ九十メートルの威容を示している。
さてこの、「いのち」の問題となると、大概難しく考えるが、次のように考えると理解し易い。
それにはまず、身近かにあるテレビを例に考えてみる。テレビの受信器には多くの装置が仕組まれていて、それらが総合的に働き、テレビとしての機能を十分に発揮するようにできている。
だが、いかに高精能なテレビでも、これに無形の電気を流し、無形の電波をキャッチしなければテレビとしての働きはでてこない。それと同様に、人間を始めすべての生物の体には、不思議といわざるを得ない精緻な装置が自然に仕組まれている。肉体は呼吸、飲食等によって生命活動を維持しているように普通思われているが、はたしてそれだけであろうか。
テレビは、人間でいえば呼吸や飲食に当る電流を通せば、働く能力はもつが、送られてくる電波を選んで受信しなければ、テレビとしての働きはでてこない。同じように人間は呼吸、飲食その他によって体の能力を保つことはできる。しかし、テレビが電波によってテレビの働きをするように、目に見えないが、大きな力がたえず我われの中に働きかけ、それによって人間は人間としての機能を発揮することができるのである。その「大いなる力」それを「いのち」というのである。
仏教では「いのちそのもの」を「仏性」と呼び、その働きを「智慧(般若)」という。従って「悟り」というのも、我が中に働く「いのちそのもの」に目覚めることにほかならない。
身心の故障を病気といい、機能の衰えを老化といい、機能の停止を死というのであって、いのちそのものは不生不滅であり、永遠である。体はいのちの働き場である。だからこれを、自他の不注意や、無自覚によって段損することは、この上なき罪過を犯すことになる。
永遠のいのちに帰依しよう。そこにはじめて安心が生まれる。