「大切にしたい生命」のために
(出典:『琉璃燈』平成8年12月8日)
黄檗宗祖隠元禅師はお悟りをひらかれた大禅師ですが、「生命」を限りなく尊んだ方でもありました。
「吾海外にあること数載、ただ人に勤めて修福放生を急務となす」
という言葉に代表されるように、隠元禅師は生きとしいけるものへの限りない慈悲の心をことあるごとに布教されたのです。自らもそれを実践され、生きものを元の自然に返してあげる放生会という法要をたびたび行われました。
また、隠元禅師は両親への孝行心が非常にあつい方でした。とくに幼い頃に父を亡くした隠元禅師は母親を大切にし、禅師がなくなられる二日前にも弟子たちに両親への孝行心の大切さを説いたといわれます。
僧俗を問わず、いつどんな時代に生きたとしてもこの「生命を大切にする心」と「両親を大切に知る心」は、人間にとってなくてはならないのもだと思います。
さて、これらの大切な心を私たちがお互いに育み保ってゆくために、いったい何をどうしたらいいのでしょうか?
先日、なにげなくテレビのニュース番組を見ていたら、ある住宅メーカーが行った「仏壇と神棚に関するアンケート調査」の結果を発表していました。
その調査結果の数値を見て、私は少なからずショックを受けました。
「あなたの家には仏壇や神棚はありますか?」
という質問に
「家には仏壇がない」と答えたひとは47%
「家には神棚がない」と答えたひとは53%
そして
「仏壇も神棚もない」と答えたひとは25%
というのです。
アンケートを取った人数は数百人程度でしょうが、全国的にも四軒に一軒の割合で仏壇も神棚もない家庭があると見ていいのです。
番組では引き続き街角でのインタビューを5・6人分放映しましたが、仏壇や神棚を家に置いていない人がその理由としてあげたのが、住まいの狭さでした。団地やマンションでは自分たちの居住空間を確保するのが第一で、仏壇や神棚などは二の次、三の次だというのです。
ほんとうにそれでいいのでしょうか。
今のように核家族化が進行する以前の各家庭には仏壇や神棚がありました。
毎朝必ず家族全員で御参りしたり、何かいただき物をしたらまず仏壇にお供えし、喜びごとがあったり遠出の旅先から帰った時も必ず仏壇や神棚の前でそれを報告しました。
四季折々の花で毎朝欠かさずお茶やご飯を仏壇や神棚にお供えします。それらをお供えしないと家族のだれも食事に手をつけられませんでした。
かく言う私も仏壇や神棚に様々な思い出があります。例をあげればきりがありませんが特に亡き父が毎朝仏壇を丁寧に掃除していたのを今でもなぜか鮮明におぼえています。
私は仏壇や神棚は家の〈中心〉であり〈核〉だとおもいます。
そして、仏壇や神棚があるかないかでその家庭の家族の感謝の心や宗教心のありかたが随分と変わってくるようにおもいます。特にその家庭に生まれ育つ子供の心には大変大きな影響をあたえるのではないでしょうか。
私自身も仏壇や神棚を大切にした父や母の後ろ姿を見て、幼いうちから「ご先祖様を敬うこと」「両親や祖父母を敬うこと」「兄弟や友達と仲良くすること」などを知らず知らずのうちに教えられていたのだとおもいます。
悲しいことに今、世の中には生命軽視の風潮がはびこっています。
日々、新聞の社会面をにぎあわせている殺人事件や傷害事件から教育の現場で問題となっている〝いじめ〟まで、目を覆い耳をふさぎたくなるような事件が多すぎます。
私は、それらの多くの問題や事件の根底に日本人の宗教心の欠落があるように思えてなりません。そして、それは各家庭から仏壇や神棚が姿を消しつつあることと無関係ではないと思います。
今の世の中、政治や経済が限りない混迷の道をたどっていますが、加えて様々な価値観の氾濫によって個々の宗教観が混乱しているのも現代社会の特色だと思います。
より豊かな住よい社会の実現の為に一人ひとりが正しい宗教心を持つことが大切です。未来を担う子供達には特にそれが必要なのではないでしょうか。
生命の尊厳を単なる知識として理解するのではなく、他人や他の動植物の生命の尊さを心の底から感じ、それらを思いやる豊かな心を育んでいかなければならないのです。
相手の喜びを自分の喜びとし、相手の痛みや悲しみを自分の痛みや悲しみとして感じとれる力を人は誰でも持っているはずです。
各家庭の仏壇や神棚はそれを育む大切な存在だと思いますがどうでしょう。
決して仏壇屋の宣伝をするわけではありません。しかし、私は最近の新聞の社会面を見ながら心からそう思いました。